巾着田と高麗若光

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皆さん、

昨日、快晴で寒い中、「古道を歩く」は、飯能の「高麗」でした。

飛鳥時代、高句麗の崩壊で受け入れた高句麗王朝の一族が、
関東の開拓を含めて、亡命(?)を認められ、
まず、大磯に上陸、そこから北上して、多摩丘陵を越え、
府中を通って、巾着田の所に定着した。
この高麗若光の跡をたどる企画でした。

高麗若光の館跡と推定される高台からは、
長閑な巾着田の晩秋の風景が一望できる、
素晴らしいものでした。

多摩丘陵も含めて、関東には、渡来人の遺跡が多々、あるとのこと。

春に秩父を廻っていて、「和同開珎」の起源、
こんな田舎で、あんな古代に、山師の商売が成り立った
理由が不思議で、その後色々調べてみたら、
銅の発見者は、渡来人だった。
それが、これの高麗若光と繋がってた。

飛鳥時代は、まだ日本がアジアに開けていた時代で
(というか、アジアに繋がっていた時代で)
漢が崩壊し、隋が統一する前の混乱期。
世界は軍拡時代で、青銅製・鉄製と武器が飛躍的に進歩していたが、
日本には輸出品が無く、輸入がままならないため、
朝鮮の技術者を呼び入れて、全国的に鉱山資源を探させていた。
その結果が、「和同開珎」や「高麗若光」だった、
と個人的に了解したしだい。

清水


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