2011年11月17日(木曜日)

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カテゴリー: - nobuo @ 14時52分46秒

白神写真撮影旅行 千谷 10/29/2011

一昨日の夜、二泊三日の白神写真撮影旅行から戻ってきました。白神を本当に味わうには白神岳などの登山をやる必要がありそうですが、今回は東側の暗門と西側の十二湖の周りをウロウロしただけですが、それでも晩秋の白神を十分楽しめました。暗門の宿ではカメムシ大発生ということで少々びっくりしましたが、まあこれも自然の営みと観念してカメムシ退治に奮闘しました。ガムテープでそっととらえて、臭いを出す前に餃子のようにくるんでしまうとノウハウを教わりました。十二湖も美しいところでした。津軽の田舎風景やリンゴ園などもゆっくりと楽しみました。

第一日目: 青森港をレンタカーで出発。途中棟方志功美術館を覗く。棟方志功の迫力に圧倒される。夕方白神山地東側を散策、暗門の滝までは行けず。そのまま暗門泊。カメムシと格闘。

第二日目: 岩木山の山麓を回り、リンゴ畑など津軽の田舎の風景を楽しむ。鯵沢という漁村による。ラーメン屋があるくらいの淋しい駅前だったが、ブサ可愛いことで有名なワサオという犬や白神を一生懸命宣伝していた。千畳敷という一面の岩でできた海岸を(三浦半島の海岸でみた風景の迫力が増した感じ)経て、夕刻に日本海の夕日を楽しんで十二湖へ。カメムシはいない。
第三日目:十二湖を午前中一杯散策した。観光客があまり行かないコースに行ったため、気持ちのよい樹林や湖水を楽しめた。とてもいい所だ。後は秋田まで車を飛ばして、帰路につく。

鎌倉再訪ピクニック 千谷 10/10/2011


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2011年6月14日(火曜日)

津波の力 ー 浦田 長野 5月26日2011年

カテゴリー: - nobuo @ 19時14分11秒

天文趣味のせいか、自然の力をあるがまま観測、観察
することが習性に近くなってます。 今回、日本に帰国したので、
お見舞いがてら、仙台を訪ね長野氏に近郊の海岸地帯を案内して
もらいました。映像は満ち溢れてるので、写真は撮りませんでした。
長野夫妻の親切、受けた衝撃をととめるよすがとして、
詠を読みました。長野氏の解説をいただきました。

松島の小島が救った瑞巌寺 寄せる津波をやわらげて
[nagano] お隣の東松島と被害がえらい違いです。
このお寺は伊達家の菩提寺です。
経験則で地震や津波の被害が少ないところを選んだのか?

はてしなく続く堤防乗り越えて 松並み倒し寄せた大波
[nagano] 松島以南の海岸は江戸時代から松並木で防波堤としていたが
今回の津波では被害緩和の効果があったといわれるものの殆ど壊滅。

ごみ野原 津波が奪った豊漁と土産屋通りの日々の賑わい
[nagano] 松島海岸の土産物屋は復旧。ただし客足は以前の3割程度か?

新緑の小雨に煙る多賀の城 とわに伝えよ 津波の惨状
[nagano] 平安時代の蝦夷向けの砦(多賀城)。この説明に貞観地震の解説がありました。
(今回私もはじめて気がつきました)

松島にて


2009年3月7日(土曜日)

河津桜とカワセミ(3/1) & 多摩川をサイクリング (3/7)

カテゴリー: - blog @ 21時47分54秒

河津桜とカワセミ Sun 3/1/2009

今日、気の向くままにサイクリングに出かけ、立川市内にある東京農業試
験場を経由して、
多摩川の沿いの水辺の公園に出かけました。
試験場の施設などは休日で休みでしたが、農場の一角にピンクの河津桜が
咲いていました。
河津桜は早咲きでもう満開でした。この時期には落葉している木が多い
中、ピンクの満開の桜
はひときわ目立ちます。桜の他にも赤と白のツバキが咲いていました。
農場から多摩川に沿って水辺の公園を散策していて、何と、カワセミに出
会いました。
以前、この近くで清水さんが見かけたというので、ひそかに期待はしてい
たのですが、まさか、
の出会いです。
鮮やかな青、白い首、オレンジ色の腹、黒の嘴、で、鮮やかな色彩が本当
に印象的。
一瞬、水浴びした瞬間もあったのですが、シャッターチャンスを逃してし
まいました。

農場での桜の写真、水辺のカワセミの写真を添付します。

木原
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ーーー
多摩川をサイクリングしました。 Sat 3/7/2009

早春の快晴に誘われて多摩川サイクリングへゆきました。

昼前に家を出て矢川駅傍を抜け、エコ思想のモダーンな建物の国立郷土文
化館へ寄り、多摩川のサイクリングロードへ。甲州街道の橋をくぐり、府
中四谷橋0京王線、関戸橋を過ぎ、対岸の桜ケ丘カントリーを横目に、府
中郷土の森を過ぎて南武線、是政橋。このあたりで河原の畑に早春の菜の
花。
稲城大橋有料道路を過ぎ、多摩川原橋、京王多摩川線あたりで疲れが出て
きたが更に先へ。狛江から多摩川水道橋、小田急、さらに進んで東名高
速、喜多見から双子玉川に到着。

帰りは、国道246の側道を通って対岸の溝の口側に渡り、今度は対岸の
川崎側のサイクリング道路を戻る。途中、登戸の河岸に貸しボート屋。季
節外れで誰もいない。ちょうど、小田急のロマンスカーが通っていた。そ
のまま上流へ戻り、鶴川街道で多摩川を越えて府中、国立、立川と来た道
を戻る。往復約50kmのサイクリング。急な運動で準備運動もしなかっ
たので、流石に脹脛が痛くなりました。久しぶりの経験。

先日のカワセミの写真と一緒に、途中の写真をUPしました。
季節も春めいて久しぶりの晴れの天気だったからか、多摩川のサイクリン
グロードは結構たくさんの人出でした。

木原


2009年2月27日(金曜日)

シスコ湾岸湿地 1/18/2009

カテゴリー: - blog @ 15時55分08秒

皆さん、

昨日、今日と、2日 Baylands(湿地)にゆきました。 説明によると、
 アメリカ西海岸で一番の鳥の生息、羽休めのエリアだそうで、観察期に
は世界中から人が集まるそうです。 

レンズは昨日は 300mmズームで今日は500mmです。昨日は夕方
で鳥達は活動的的でしたが、今日は真昼だったためお休みで道具はあまり
関係ありませんでした。

このところ、晩春の陽気で、若い女性のノースリーブがちらほら目撃され
ます。

浦田


多摩からの富士 2/1/2009

カテゴリー: - blog @ 15時46分55秒

皆さん、

本日は、久しぶりに快晴になったので、
近くの富士山眺望スポットを探しに
自転車で走り回ってみました。

出発が10時頃と遅かったため、ほとんどが午後。
この時期、多摩はダイヤモンド富士の季節のため、
(富士山の頂上に太陽が沈む)
午後になると、太陽が富士山の上方に来て、
写真がとても撮りにくくなっていました。
やはり、前日から準備して、早朝に出発すべきでしたが、
今回は、場所探しと言うことで・・・。

多摩でも、建物が無ければ、このぐらいは見えるのです、
と言うことで、写真をULしました。

撮った時は、見えた!見えた!と感激したのですが、
同じような写真ばかりで、申し訳ない。

1)近くの多摩湖自転車道にて
2)工事中の多摩湖畔から
3)荒幡富士:所沢にある富士塚からの富士山
 ここは珍しく今でも富士山が見える富士塚です。
4)雲性寺の裏
5)長円時の裏
6)神明社の裏
7)禅昌寺の裏
 多摩湖丘陵の南斜面には多数の寺社があって、
 そのお墓等が南面していて開けているので、
 丁度良い富士山眺望スポットになっていました。
8)白梅
9)紅梅
 日当たりの良いところは、もう満開に近くなっていて、
 梅の香りがとても良かったです。

多摩川土手も、富士山が良く見えるのですが、
本日は、廻れませんでした。

清水


2008年12月28日(日曜日)

皆さんの下町の感覚一覧表

カテゴリー: - nobuo @ 12時28分15秒







下町                    

2008/12/20

皆さんの下町の感覚を一覧表にしました。
地形図を見つけましたので、地名を入れました。
上野は武蔵野台地の東端で半島のような形になってます。ややこしいところにあります。

長野さんのwikipediaの解説を読むと商工業の集積した町人町ということのようですね。

地形だけ、文化だけということでなく、双方相俟ってということだと思います。
日本だけというか東京だけの文化ということのようですね。

鈴木         

発言者

意見

下町の定義

浦田さん

目黒、世田谷から見ると、上野、本郷界隈が下町という感覚なのかと驚いたわけです。 こちらは目白がなじみで、巣鴨、日暮里は地続き、上野、本郷、湯島界隈はお隣で、下町という感覚はありません。
 下町というと、浅草、築地、八丁堀、等々でしょうか。 東京育ちではないので、大きなことは言えませんが。 

上野は下町ではない

長野さん

「下町」とは、旧東京市街地という意味でしょう。
恐らく明治初期には上野の当たりが新興住宅街、それから山の手へとどんどん住宅街が発展していった、だから新興住宅街からみれば歴史とか重みは当然古いほうがあるわけで、下々の町というよりも古くから生活を営んでいた重みのある町という意味だと解釈しています。
そういう意味では、浅草、両国、深川とかが先なのでしょうが、私個人としてはあまり面白く感じておりません。
例えば、広重が描いた両国花火の風景の名残(有形、無形を問わず)でもあればよいのですがその点がどうも、といったところです。

歴史の重みあるところ

鈴木

本郷台地から東にかけて低くなって行くところが下町だと思ってました。
上野、秋葉原、神田などです。神田明神の断崖から下を見ると下町という感じがしました。
しかし東京駅、有楽町、日比谷、神保町、九段下あたりは、土地は低いですが下町とは言わないですね。言うのかな。
ニューヨークとかサンフランシスコの海に近い低い場所はダウンタウンという感じですが、低いだけでダウンタウンと言うんでしょうか。定義があるんですか。

低いところ

長野さん

私も本当はそうだと思っていました。
つまり、江戸の町人は低地に住んでいて、台地は武家屋敷だから下町〜町人の町ということなんだと思っていました。

町人の町

桑原さん

下町は私はあまり違和感がありませんでした。上野あたりからそういう感覚です。

上野あたり

千谷さん

目黒育ちの私は神田から池袋を結ぶ線から東はすべて「下町」だと思い込んでいました。
今回は散策前に昭文社(地図で有名な会社です)の『東京下町散歩』というガイドブックを見ていて、そこに挙がっている地名は浅草、谷中、根津、千駄木、上野、神田、日本橋、築地、深川、両国、神楽坂、巣鴨、柴又、錦糸町などだったので、何の疑問もなく我々の歩いたのは「下町」と思っていました。
ちなみに広辞苑を引いてみると、下町は「台東区・千代田区・中央区から隅田川以東に渡る地域をいう」とあります。これに従えばいわゆる大名屋敷があった地域も多く含まれることになります。港区あたりが境界ということでしょう。渋谷は江戸時代は渋谷村という寒村でしたし、新宿は甲州街道への単なる宿場町でした。
東京の山の手というのはもともとは雑木林や田畑だった後進地域(私の小さいころの目黒のはずれもそうでした)であまり文化がないところでした。田園調布が開発されたりもともと田舎から出てきた軍人(私の祖父も父も軍人でした)、学者、事業家あるいは芸術家などがその後住むようになって、文化的な雰囲気が後付けで生まれてきましたが、お江戸の文化にはまったく縁がないところです。ですから山の手の人から見ると下町は、武家も町人も含めたお江戸の伝統と文化に彩られた歴史に憧れを感じながら、観光客としてしか立ち入ることができない特別な地域なのです。私は今回ほとんど初めて観光客として「下町」を散策したということになります。
それにしても「下町」という分かっているような言葉にそれぞれの異なった色々な理解や思いが込められていることが大変面白かったです。

池袋、神田から東。

 

 

 

 

 

山の手は江戸文化が無いところ。

浦田さん

 

地図をじっと見てみました。 さすが広辞苑。 そうすると、皆さんは下町ー山手 境界沿いを歩きながら、 下町(谷中、台東区)から山の手へ(本郷、 文京区)と横切ったわけだ。 だけど かの有名な 上野の森の芸大が下町にあるとは誰も言うまい。
下町は「ひ」と「し」の発音が区別できない人たちが住んでたところ − わたしのイメージ。

シスコでは海に近い低いところをダウンタウンとは言わないと思います。 「ダウンタウン」は歴史的カルチャーの観念なので、 アメリカではバー、サロンがあって保安官事務所、銀行、鍛冶屋、があったところで、近年までは住民にとっては非常にクリアーなものだったのでは。 ヨーロッパの城塞都市近くのCentrumも「ダウンタウン」を象徴する機能が集中して、ダウンタウンの範囲は人々の頭の中ではクリアーだったと思います。
ヨーロッパ城塞都市でも同じ感覚なのでしょう。

上野は下町ではない。「ひ」「し」の区別ができない人が住んでいたところ。

高岡さん

ダウンタウンを直訳すると下町になるので、錯覚を起こしやすいのですが、アメリカの多くの都市には、浦田さんの定義を発祥とする、あるいはそれと似たようなダウンタウンがあるのに対して、日本の下町という言葉は東京だけだと思います。

京都の下京は御所に対して南の方が下、北の方が上という概念なので、これはまた違いますね。横浜にも下町という言葉はないと思いますが。 

下町は日本の文化。

清水さん

なるほど、「下町」と言うのは、東京だけの用語なのですね。気がつきませんでした。
私も、千谷さんと同じように、神田から池袋を結ぶ線から東(北)はすべて「下町」の感覚でした。
基本的には、江戸の町の歴史を引き継いでいて、木の無い家並み、のイメージです。

池袋、神田から東

浦田さん

清水さん、鈴木さん、千谷さん、三人とも 山手ー下町の境界は池袋ー神田ラインとはビックリ。
わたしの境界ラインは 南北のほぼ直線で、 南から
山手(西)| 下町(東)  
ーーーーーーーーー
麻布   |  芝
葵町   |  新橋      
銀座   |  築地
八重洲  | 八丁堀
神田   | 日本橋
秋葉原  | 柳橋
上野   | 浅草
千束は田舎
だいたい文京区の連中と台東区の連中はカルチャーが全く違ったと思うので、 「池袋ー神田ライン」と聞くと頭から湯気が出てくる。 長野さーん、御登場願います。

上野、神田、銀座は下町ではない

高岡さん

下町についてざっと調べてみた範囲では、どのあたりというのは書いてあるのですが、名前の由来が書いてないので、はっきりした定義がないのでしょうね。しかし、下町は山の手と対で使われる言葉なので、物理的な上下関係で、下町といわれるのだと思います。

 したがって、根津、谷中以東は下町で本郷、西片などは山の手と思っていたので、小生も浦田さんの感覚に近いのですが、秋葉原は下町、上野、神田は下町と山の手の境で、上野広小路あたりは下町、上野公園、芸大辺りは山の手、神田も須田町辺りは下町、淡路町辺りからは山の手になってくると思いますね。

 銀座も下町だったように推測しますが、高級店が並ぶようになって、イメージとして下町感覚がなくなってきただけなのでしょう。地理的には下町ですね。

上野、神田は境界

清水さん

「下町」の対が「山の手」なので、確かに、東京独特の表現ですね。「下町」のイメージも大分色々ですね。
対の「山の手」の私のイメージは、向田邦子が「あ・うん」等で描いた戦前の東京や、或いは、怪人二十面相が出てくる戦前の東京の住宅地です。武家屋敷の崩れた跡地に食い込んだ塀や生垣で区切られた家並み、暗い道にポツンポツンと立っている裸電球の街灯、時に、大きな木がかぶさっていて昼なお暗い道があったり、その先に洋館の建物があったり、と言う何故か暗い世界のイメージです。
(寒いこの季節にイメージしたからかな?)

戦前の東京の住宅地が山の手

長野さん

私は、下町がどこかというよりも、西洋とは一線を画す固有の江戸ー東京独自の文化なり風土なりを持つ地域を勝手に下町と呼んでいます。
少なくとも鹿鳴館は下町文化とはいえないことは明らか。即ち、明治以降の近代化の中にあって西洋コンプレックスから無縁の(あるいは無縁と思える)地域を下町と考えています。そうすると上野の山は下町といえるかというとそうともいえないな。
いずれにせよ、見下すような意味合いは皆無で、むしろ日本が自慢してよい地域と考えているので、下町と呼ぶことは新興住宅地ではないという意味の褒め言葉の意味です。まあ、もうひとつ言えば「下町」の距離感というか、時空間のゲージが気に入っており(今すんでいる上板橋もそう)、(例えば神田の古本屋も全体が醸し出す、立て込み方がなんともいえない。ついでに言えば朝倉邸も日本人の寸法感覚にあった作りが大変気に入った)これに合致するところを勝手に下町と呼んでいます。
全く答えになっていないが。

江戸文化のあるところ。

 

浦田さん

長野さんの Wikipedia 「東京市街の変遷」は知りたかったことのかなりを説明してくれてます。 なるほど。
結局、明治に入れ替わった山の手の新住民は、江戸期の山の手文化を継承しない薩長土肥の「田舎者」だったわけだ。
上野東照宮は写真で見ても落ちぶれたたたずまいで、鬼気迫る雰囲気を感じました。
中国流に言うと、「前皇帝の王宮 −江戸城」に新皇帝が入り、前皇帝の一族は落ちぶれたとはいえ、その隣の墓所で眠っているという、はなはだ平和的な時代変転があったわけで、江戸総攻撃中止、無血開城の後世へのインパクトを痛感します。 東京郷土史は即日本史ですから、面白いですね。
Wikipedia
 で 「江戸」を検索したら、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Edo_1844-1848_Map.jpg
弘化年間(1844-1848年)改訂江戸図という、高解像度での画像? (5,625 × 4,769 )が出てきましたのでDownloadしてじっくり見ました。 高価な三層地図の替わりに、これと、現代地図をかさねればよさそうですが、縮尺精度は充分なのでしょうかね。
小石川から、護国寺への道が信じられないほど広いのですが、どうしてでしょうか。

山の手は田舎者。

 

東京地形図:www.komazawa-u.ac.jp/~yasushi/research/digital_map/Tokyo5m-DEM/tokyo_l.jpg
地名を入れました。

 

 


2008年12月26日(金曜日)

谷中・上野・本郷散策記(2008年12月20日)

カテゴリー: - blog @ 03時06分43秒

皆さん、一人一稿ということで、私が勝手に抜き出して整理しました。
締めは勿論浦田さんのアメリカよりの参加寄稿です。

足らないところは、各自補ってください。 写真はここをクリックしてください。

<清水さん記>↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
皆さん

こんな場所があったのか!と楽しい発見の歩きになりましたね。
鈴木さん紹介の中華料理屋も良かったですね!

会計報告するのを忘れていたので、
ここに報告しておきます。

今回、「志苑」での食事:
 36,828円/8人
支払い残金:
  3,172円

今までの残金:
  3,269円

合計残:
  6,441円

以上。

次回、2月頃となっていましたが、
”梅”の季節ですね。

<鈴木さん記>↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

世話人さん(清水さん、長野さん)のおかげで楽しい散歩でした。天気もよかった
し。

長野さんがあの界隈に詳しいのにびっくりです。みなさん健脚なのにもびっくりで
す。

谷中銀座、谷中霊園、朝倉彫塑館、黒田清輝記念館、岩崎邸、こなしきれないほど盛
りだくさんで多くが初めてでした。
浦田さんに待たせて申し訳ないのですがアップするのはちょっと心構えがいるので、
とりあえず1枚ずつ添付しました。

<吉冨さん記>↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
清水さん、長野さん、皆さん
実に楽しい散歩会でした。最後の中華も旨かったし。
東京を見直しました。暫く、東京に拘っても良さそうですね。
次は神田、浅草かな?
無責任な発言にはムチが飛んで来る様ですので、慎みますが。

<千谷さん記>↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

本当に楽しい散策でした。清水さん、お世話様でした。長野さん、ご案内ありがとう
ございました。下町に疎かったのでとても面白かった。決めの中華料理も素晴らし
かった。次が待ち遠しいです。

さて、堂々105枚の画像を登録しました。是非ご鑑賞ください。そしてコメントな
ど自由に書き入れてください。

一括登録とタイトル・コメントの挿入の方法はほぼ手中に収めました。順番整列の問
題はどうしたものかと思っていたところに、たった今浦田さんのメールを発見しまし
た。熟読してどうすればよいのか、これから研究します。

<中島さん記>↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
“下町”は私はあまり違和感がありませんでした。上野あたりからそういう感覚で
す。

中華料理の写真は浦田さんにこんなもの食べたよ、という報告という感覚で撮っ
ていて決して羨ましがらせるという気持ちはありませんでいたよ。中華は美味し
かったけれど、私はこれらのお料理はたぶん葉子さんの作られる方が美味しいの
ではないかと思います。葉子さんのお料理はとても美味しいですから。

この間の散歩では、私は一番朝倉彫塑館の建物が良かった(彫刻は、ミケラン
ジェロを夏に観た印象と比べてしまったのかもしれないですが、確かに写実とし
ては確かなのだけれど、精神的に深いものを感じませんでした)。岩崎邸の建物
も素晴らしかったですが、前に一度行ったことがあるので、印象は朝倉のほうが
強いです(今回の散策ではこれを除いたら後は全部ほとんど始めてでした)。朝
倉さんは昭和の始め頃の芸大の先生だったようですが、その家は素晴らしい。3
階建てで一階は中庭を囲んで和風と洋風の建物で囲んであり、中庭はすべて水が
貼ってある日本庭園で巨石が5つぐらい配置されています。洋館は一階に30畳
ぐらいの吹き抜けのアトリエがあり天井はガラス、その横に十畳ぐらいの書斎が
あり真ん中に机、四面に天井まで書棚があり、本が詰まっていました。長野さん
がえらくこの書斎に感激していました(私も羨ましかった)。二階は昔、欄を
作ったよいうサンルーム、奥に20畳ぐらいの、東南に廊下を張り巡らし、まわ
りの眺望が見える立派な日本間がふたつ、屋上は土が入れてあり、木と草花の花
壇があり、周囲が見渡せる素敵な屋上でした。素晴らしい家だと思いました。
(これから耐震工事をやるというので5年ぐらい休館するらしいです。)

あと金魚屋と長野さんが言っていて何のことかと思ったら、たいやきやで(でも
金魚のように小さいということ)外から観ると畳が部屋の一角に敷かれそこに茶
釜が置いてあり、それを囲んでスタンドがありました。これが店?たいやきや?
という感じで結局入りませんでした。これも面白かった。

<高岡さん記>↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
素晴らしい写真、どうも有り難うございました。
今日、じっくり見せてもらいましたが、あらためて東京の下町って
いいところだなと思いました。
カメラのアングルがいいですね。
不忍池のカモメも一眼レフの望遠を活かしてうまく撮れてますね。

<木原さん記>↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
清水さん、長野さん、皆さん

幹事役ありがとうござました。
上野近辺はチョクチョク出かけるのですが
まだまだ知らない場所がたくさんあること
改めて発見しました。
ぜひ、またやりましょう。

千谷さん

流石に一眼レフでの写真の腕は違いますね。
小生もこの夏にNIKONのD60を手に
入れたので早く習熟したい、と思います。

<長野さん記>====================================
皆さん
話題を変えてすみません。
また下手な俳句(季語は保証外)を2つ。

冬の日の朝倉邸の明るさや

(物理的に明るいだけでなく知的な明るさを感じる建物でした)

三四郎池の周りの名残秋
(池の周りの紅葉がなんとも・・、吉冨、鈴木さんを除く皆さんスミマセン。勝手に
先に行ってしまって)

<浦田さん記>====================================

千谷さん、皆さん

105枚の写真の掲載ごくろうさまでした。 見たところ、かなりスムー
ズにいったみたいですが、どうでした。 Disk容量がタイとになってきて
るので、Upload したファイルは消去させていただきます。 マイアルバ
ムは登録時に新しいファイルを生成します。 千谷さんのPC上のもとの
ファイルは消さずに保存しておいてください。

谷中墓地横(?)の派出所は、究極の職住近接、一戸建て、マイクロウ
エーブ(?)のアンテナと二階に干された布団等は 思い出しても笑いが
出てきます。 アメリカは派出所の制度がなく、パトカーの巡回でカバー
するのですが、 SFでは日本式交番の利点を活かそうとのことで、日本街
に交番ができました。いまはどうなってるのか解りませんが。

しかし、中華料理の写真はきついですね。 大画面で見ると、エビチリ、
麻婆豆腐の香りが漂ってくる錯覚に陥るほどで、葉子なぞ面白くないと憤
慨してました。 麻婆豆腐も写真のようなのはこちらでは絶対食べられな
いですね。 上野の森では見どころがたくさんだったみたいで、本郷周辺
で日が暮れてきたみたいですね。 鈴木さんお勧めの中華料理でほぼ一日
がめでたく終了のようでした。 誰かが、「散策後記」を書いてくれるの
を楽しみにしてます。

昔をいろいろ思い出して「長野発案」にどうなることかと、懸念を抱いて
いたのですが、愉快な一日だったようで何よりです。 長野さん 失礼し
ました。

写真のカテゴリー名が「東京下町散策の会」で、これには抗議をしたい気
分です。

それと、フォントのことなのですが、IEの場合、テキストサイズを小さく
すると、シャープな画面になりますので、お試しください。 
Firefox と Google Chrome (ダウンロードしていちど試してくださ
い)では フォントが意図的に縮小されて、画面がシャープです。


2008年12月19日(金曜日)

山手線下町コース コメント

カテゴリー: - blog @ 10時57分38秒

長野さん、

山手線シリーズは面白い考えだ。 一周まわると、だいぶうまくなってる
だろうから、またはじめられる。螺旋的に楽しめる。 なんとなく斜めか
ら見たような観察の魅力と欠点を止揚して、暖かさも加わってくる
と、もっと楽しめそうだ。
「上野駅」が気に入った。

浦田

>
> 浦田さん、皆さん
> 山手線の下町コース川柳シリーズ?です。
>
> おいおい追加します。
>
> 新橋のほっけを分けあい友送る(再掲)
>
> 山手線池袋にて様変わり(再掲)
>
> 上野駅レトロブームで生き返り
>
> 乗換のないのが売りの鶯谷
>
> 長野
>


山手線下町コース

カテゴリー: - blog @ 03時13分19秒

浦田さん、皆さん
山手線の下町コース川柳シリーズ?です。

おいおい追加します。

新橋のほっけを分けあい友送る(再掲)

山手線池袋にて様変わり(再掲)

上野駅レトロブームで生き返り

乗換のないのが売りの鶯谷

長野


無鄰菴(むりんあん) 山県有朋の京都庭園 

カテゴリー: - blog @ 00時24分07秒

 
先週(2008年12月の第2週)、京都の実家に帰り、近所を散歩。
いつものコースで、平安神宮から動物園横の疏水を通り南禅寺へと抜けたのですが、
最近(というより何年か前から)、その道に「無鄰菴」の標識が目につき、
一度行ってみようと思っていたので、立ち寄りました。
 
山県有朋の別荘ですが、一般公開は20年前からということで、道理で
子供の頃には気が付かなかったわけです。
 
長州出身の山県有朋が京都に別荘を持ちたいと思ったということは、
その頃はまだまだ京都も権力者の意識の中にあったのでしょう。
 
琵琶湖疎水の水をわが庭に引き、池泉回遊式の庭園を、自ら設計して、
築庭の名人小川治兵衛に作らせています。余談ながら、この小川治兵衛という人は。
平安神宮や東京の椿山荘の庭等数々の著名な庭を作ったということです。
野村財閥の別邸の庭も作ったということで、それもこの近くにあるので、
野村美術館へ行き、隣にある庭を見せてもらえないかといったところ、
あそこは(野村さんが)住んでいるから駄目だと、言われてしまいました。
 
この無鄰菴の庭は、東山を借景に、コンパクトながら見事な庭で、
母屋と茶室が、うまく溶け込んで、たいへんいい、うるおいのある景色を
見せてくれます。
洋館があって、残念ながら外側は補修中で、外観は見られませんでしたが、
中に入ることができました。
日露戦争開戦前に、ここで、山県有朋、伊藤博文、桂太郎、小村寿太郎が
日本の外交方針を決めた「無鄰菴会議」が開催されたということです。
明治36年、新生日本が意気軒昂なころですね。
 
この近くは、明治時代に作られた琵琶湖疎水、その水を利用した水力発電所、
水運のインクラインがあり、京都の中では、明治の息吹が感じられるところです。
 
 
高岡
 


2008年12月18日(木曜日)

長野さんの「俳句と川柳 一句ずつ」

カテゴリー: - blog @ 16時24分25秒

長野さん、

創るの早いですね。

> ところで、現在客待ちですので、俳句と川柳を一句ずつ

> 雪富士をけやきごし見る仮住まい
> (冬になるとハッパが落ちて富士山が見えるようになります)

フムーなかなかいい。 俳句は切って余韻をだすみたいで、字余りです
が、

雪の富士 けやきごしに見る仮住まい

> 山手線池袋にて様変わり
> (目白方向と大塚方向で、乗客が様変わりします)

説明も含めて 57577の狂歌はどうですか。

浦田


2008年12月13日(土曜日)

今年のもみじの紅葉

カテゴリー: - blog @ 22時24分24秒

清水さん

モミジの写真、楽しませてもらいました。いずれもよい写真ですね。
紅葉は紅と黄が組み合わさると相互に映えること、
光線の加減で紅葉や黄葉はずいぶんきれいになること、
などを、アップされているモミジの写真集を見ながら改めて感心しまし
た。

落ち葉の赤が敷き詰められている中の鮮やかな黄葉の写真、射し込む日の
光を浴びて
紅と黄が混ざり合い燃えているような写真、など傑作だと思います。

来年の紅葉狩りの参考にさせていただきます。

木原
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Subject: 今年のもみじの紅葉

皆さん、

今年の春、見飽きるまで見てやろうと桜を追いましたが、
この秋は、もみじの紅葉を見飽きるまで、と追って見ました。

天候が不順だったので、今年の紅葉A
F色が悪い、とあちこちで聞きましたが、
昨年までを知らないので、それなりに紅葉を楽しみました。

素晴らしい紅葉をみるには、
紅葉に適した天候条件であったこと、
もみじが紅葉の綺麗な品種であること、
ベストな時期に見に行けること、
等が必要なのでしょうが、
それらはあまり選べる条件ではないので、
結果として、個人的に楽しめた条件を書いてみます。

・晩秋の日差しは弱いので、色を楽しむには、逆光にして、
 葉を透して見るのが、真っ赤に色が鮮やか。
 加えて、空が
っ青ならば、最高!の気分。
・夕日暮れ時の、夕日を受けた紅葉。
 赤さが一段と増し、周りの黄葉した草木も雰囲気を出してくれます。
 又、早朝散歩で、朝日を浴びた時の紅葉も綺麗でした。
・雨上がり。木の幹が真っ黒になっていて、日を浴びた赤い葉が
 コントラストが強まって、綺麗でした。

桜は、都心にも郊外にも溢れていましたが、
もみじの紅葉は、意外に少なかった。特に、都心が。
共に人が鑑賞のため選んで植えている木だが、
京都と東京では感性が違うのだろうか?
D心ではむしろ(本来観賞用ではない)イチョウの黄葉が目立つ。

まだ見飽きるまでにはいたらず、”京の紅葉”と”山の紅葉”を、
次の機会に追求してみます。

紅葉の写真をULしました。
ご覧ください。

清水
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写真内容:

真っ赤な紅葉
 秩父御嶽神社の東郷公園:
 真っ赤なもみじは、先日の鳥居観音が一番鮮やかでしたが、
 ここのもみじも真っ赤でした。
 もみじの下の銅像は東郷元帥です。

燃える紅

 秩父御嶽神社:
 真っ赤なもみじの紅葉と黄色のもみじの黄葉が重なると、
 黄色が燃えるような色に見えてとても綺麗でした。

散った紅葉
 秩父御嶽神社の麓:
 紅葉の葉が一面に散って、その中で黄色のもみじが綺麗でした。

もみじの散歩道
 嵐山渓谷の散歩道:
 もみじのアーチの中の散歩道
 小春日和のような暖かな気分になれる道でした。

イチョウと紅葉
 嵐山渓谷の入り口あたりの民家:
 イチョウの黄色い葉っぱが一面に降り積もっていて、
 その中に真っ赤な2みじの紅葉でした。

公園の道
 近所の公園のもみじ

燃えるもみじ
 多摩湖畔にある玉湖神社の境内で

童子と紅葉
 丹沢/大山の大山寺の入り口
 ここも真っ赤なもみじが沢山ありました。

夕日の紅葉7
 多摩川、辺りの夕日に映える紅葉
 夕日のために一段と赤が強調されていました。
 (逆光でなくても真っ赤になりました)

林の中の紅葉
 平林寺には広大な林があり、そこはもみじの木が一面にあるのですが、
 気候が悪いのか、時期が悪いのか、
 色のいいもみじは少な1ったのが残念です。

林の奥
 平林寺の林の中で。
 
公園のもみじ
 神代植物園の近くの公園で
 
もみじ並木
 野川公園のもみじ。
 このもみじ並木の紅葉は、去年の方がはるかに良かったです。
 やはり、今年は不調か。

夕方のもみじ
 井の頭公園の端を通過する玉川上水で。
 夕日で綺麗になっていました。

紅葉遠望
 隣の尾根から眺めた鳥居観音の紅葉道

もみじの葉
 旧古河庭園で。
 紅葉はあまり綺麗ではなかってので、
 綺麗に見えた葉の写真。

池のもみじ =0
D
 六義園で。
 ここも、もみじが真っ赤ではなく、
 枯れた茶色のもみじになっていたので、
 池に浮かんだもみじの葉を写しました。

謎のもみじ模様
 不思議な写真になりました。
 この成り立ち、わかりますか?


巾着田と高麗若光 6

カテゴリー: - blog @ 22時21分02秒

鈴木さん

なるほど、コマとコウライは、時代が異なる国の呼び名なのですね。

今よりもずーっとアジアに繋がっていた時代だったのだな、と感じまし
た。
日本と言う意識になったのは天武時代ですし、
卑弥呼の時代は、数ある豪族の間で、競って中国からの権威を受けよう
としていた時代だし、
飛鳥の時代は、相対的に強くなって、連合体のトップ豪族として、
中国との関係を模索(強がったり、積極的に受け入れようとした
り、・・)
した時代だし、
アジア=中国&朝鮮半島の情勢・文化の傘の中にいた時代ですよね。
だから、弥生時代も含めて、アジアの中の一地方として考えないと、
古代は良く見えないのだな、と感じました。
・・・も又同じ状況になってきていると感じます。

清水


巾着田と高麗若光 5

カテゴリー: - blog @ 22時19分53秒

清水さん、

高句麗のこと、九州王朝、大和朝廷と中国、朝鮮の関係など。
清水さんのメールを読んで、海音寺潮五郎の「大化の改新」という本を読
みかえしました。
日本書紀にもとずいた本です。高句麗の滅亡の話は出てきませんでした。
以下この本とわたしの疑問、感想などです。

391年倭軍、海を渡り、百済新羅を破り、高句麗と戦うとあります。
高句麗は好大王の即位が391年。日本は神功皇后か15代応神天皇の時代。
この頃任那が成立したらしい。
朝鮮は北に高句麗、西に百済、東に新羅、南に任那となった。
この後400年、404年など度々高句麗と戦っているようだ。

倭の五王の時代を経て、三韓経営は困難となり、
527年、26代継体天皇の時代、任那失地回復のため、近江毛野が6万の軍を
率いて遠征の途にのぼったが
筑紫の国造磐井の反乱により九州で足止めされる。
北九州は大和朝廷の朝鮮出兵の都度収奪を受け反意を抱いていた。これを
察知した新羅が磐井に賄賂を贈り反乱を勧めたとのこと。磐井のみならず
北部九州全体の反乱だった。
九州王朝は高句麗を通じ中国北朝と繋がっていた。
倭の五王は南鮮を通じ中国南朝へ朝貢し倭国王の称号を受けていた。
大和朝廷がこれだけ朝鮮にこだわったのは鉄資源が豊富だったからだけで
なく、父祖の地だったからか?

高句麗は668年に唐に敗れて滅亡。
不倶戴天の敵だった高句麗も滅亡し亡命する人々が高麗の地に来たと言う
訳ですね。
この後、朝鮮は新羅が935年まで続き、高麗(こうらい)(?1392年)に
とって変わられる。
この高麗(こうらい)と高麗(こま)は関係ないようですね。

これ以前
57年倭の奴の国王(北九州)が後漢光武帝に朝貢、印綬を受ける。中国。
239年卑弥呼が朝鮮帯方郡を通じ中国魏の明帝に朝貢し、印綬を受ける。
中国北部と繋がり。
卑弥呼は九州に居て、その後の神武天皇の頃東へ移動したのか?
(書記では、日本建国はBC660年頃となっており、神功皇后が卑弥呼に比
定されているが、実は建国はAD200年代らしく、卑弥呼が天照大神で、神
武東征はその後のことらしい?何故東へ移動したのか?)

いろいろ読んだり想像すると興味が尽きないですね。
昔九州にいた頃史跡を訪ねなかったのが残念です。

鈴木


巾着田と高麗若光 4

カテゴリー: - blog @ 22時18分34秒

清水さん、
お蔭様でまたまた賢くなリました。

ところで、こういう歴史的な話になると、本来関西の方が多いはずなのに
なぜか縁遠かったです。(私が知らないだけかもしれんが)
京都は観光化していて、また有名すぎて、普通の空間の中に
息づいている歴史を見るという体験が殆どありませんでした。
(今から10余年ぐらい前の安土城跡は、観光地化しておらず、石垣を見な
がら天守閣跡まで昇ると
織田信長が得意げにここを駆け上がったのかなと感慨にふけりましたが)

どうも、関西人は(京都、奈良は別として)歴史とか、史跡に冷たいので
すかね。
あるいは、商売道具ぐらいにしか考えていないのかも。

長野


巾着田と高麗若光 3

カテゴリー: - blog @ 22時17分06秒

長野さん、鈴木さん

高麗は、コマです。私も、時々、コウライとも読んでいたので、
何が違うんですか?とこの古道研究家に聞くと、
コマが本当で、コウライは、コウライ人参などが有名だからでは?
とつれない返事。
コマは、高麗・巨麻・巨摩・狛・・など渡来系ゆらいの地名だそうです。

高麗若光は、高句麗=高麗の亡命民団を率いてきて、この日高に定着した
代表者で、
それを称えて、高麗神社や聖天院などがあります。
ここにも面白い話がありますが、この次に。

巾着田は、高麗にあるユニークな地形の所で、曼珠沙華で有名です。
今年出かけて撮った写真も、浦田さんのアルバムに9月頃ULして有りま
す。

清水


巾着田と高麗若光 2

カテゴリー: - blog @ 22時16分21秒

清水さん

とても興味深い話ですね。
日本書紀かなにかに載っているんでしょうか。
巾着田とは地名?高麗若光とはなんですか。

鈴木


巾着田と高麗若光 1

カテゴリー: - blog @ 22時15分04秒

清水さん
あの高麗(コマ)は、高麗のことだったのですか?
家内が(こうらい)と読むのでからかったのですが
じつは関係あったとはしりませんでした。

長野


巾着田と高麗若光

カテゴリー: - blog @ 22時14分05秒

皆さん、

昨日、快晴で寒い中、「古道を歩く」は、飯能の「高麗」でした。

飛鳥時代、高句麗の崩壊で受け入れた高句麗王朝の一族が、
関東の開拓を含めて、亡命(?)を認められ、
まず、大磯に上陸、そこから北上して、多摩丘陵を越え、
府中を通って、巾着田の所に定着した。
この高麗若光の跡をたどる企画でした。

高麗若光の館跡と推定される高台からは、
長閑な巾着田の晩秋の風景が一望できる、
素晴らしいものでした。

多摩丘陵も含めて、関東には、渡来人の遺跡が多々、あるとのこと。

春に秩父を廻っていて、「和同開珎」の起源、
こんな田舎で、あんな古代に、山師の商売が成り立った
理由が不思議で、その後色々調べてみたら、
銅の発見者は、渡来人だった。
それが、これの高麗若光と繋がってた。

飛鳥時代は、まだ日本がアジアに開けていた時代で
(というか、アジアに繋がっていた時代で)
漢が崩壊し、隋が統一する前の混乱期。
世界は軍拡時代で、青銅製・鉄製と武器が飛躍的に進歩していたが、
日本には輸出品が無く、輸入がままならないため、
朝鮮の技術者を呼び入れて、全国的に鉱山資源を探させていた。
その結果が、「和同開珎」や「高麗若光」だった、
と個人的に了解したしだい。

清水


新カルチャーツール HP マニフェスト 

カテゴリー: - blog @ 19時10分43秒

皆さん、

HPを立ち上げて、面倒をみさせていただいてるのは、一つの実験的試みと申し上げました。 誰もおぼえていないとは思いますが。 インターネットとHP技術の出現で、ある程度のサイズの人間の集まりがグループとして知識、情報を交換し、経験、体験をグループメモリー、グループアルバムとして、5年後10年後、さらには子供たちに残せるようになったわけで、大げさかもしれませんが人類が獲得した新しい道具です。 Wikipedia をみても解るように、人類の知識の拡大がエクスポーネンシャルに加速してますが、この新しい道具の使い勝手はどんなものか というのがわたしの興味でもあるわけです。 もちろん皆さんに何かしらのサービスを提供することも一つですが。 

というわけで、この線に沿って、

今回、「杭州西湖」で、高岡さんの投稿にわたしの ショート評論を付加しました。

清水さんの「古代の道を歩く会」のメールに始まった、やり取りは将来のこの種のカルチャーの発展方向を予見させるのではと考えたので編集してみました。 結果は以下の通りです。 編集に時間がかかりすぎましたが, ご覧ください。

。 最後の磯部さんのメールがテーマを多岐にし、全体の流れを拡大してることがわかります。 さあこれからさらに展開しそですが、残念ながら、女性陣の参加が少ないこともあって、充分話を受けて続けることが出来ないわけです。 

近い将来、皆さんのメールを現HPのWordPress(Blog)に自動転送して、半自動編集にしたいと考えてます。

皆さんの御意見、御提案を歓迎します。

趣旨を御理解いただき、長野、吉富氏も参画ください。

浦田


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