巾着田と高麗若光 5

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清水さん、

高句麗のこと、九州王朝、大和朝廷と中国、朝鮮の関係など。
清水さんのメールを読んで、海音寺潮五郎の「大化の改新」という本を読
みかえしました。
日本書紀にもとずいた本です。高句麗の滅亡の話は出てきませんでした。
以下この本とわたしの疑問、感想などです。

391年倭軍、海を渡り、百済新羅を破り、高句麗と戦うとあります。
高句麗は好大王の即位が391年。日本は神功皇后か15代応神天皇の時代。
この頃任那が成立したらしい。
朝鮮は北に高句麗、西に百済、東に新羅、南に任那となった。
この後400年、404年など度々高句麗と戦っているようだ。

倭の五王の時代を経て、三韓経営は困難となり、
527年、26代継体天皇の時代、任那失地回復のため、近江毛野が6万の軍を
率いて遠征の途にのぼったが
筑紫の国造磐井の反乱により九州で足止めされる。
北九州は大和朝廷の朝鮮出兵の都度収奪を受け反意を抱いていた。これを
察知した新羅が磐井に賄賂を贈り反乱を勧めたとのこと。磐井のみならず
北部九州全体の反乱だった。
九州王朝は高句麗を通じ中国北朝と繋がっていた。
倭の五王は南鮮を通じ中国南朝へ朝貢し倭国王の称号を受けていた。
大和朝廷がこれだけ朝鮮にこだわったのは鉄資源が豊富だったからだけで
なく、父祖の地だったからか?

高句麗は668年に唐に敗れて滅亡。
不倶戴天の敵だった高句麗も滅亡し亡命する人々が高麗の地に来たと言う
訳ですね。
この後、朝鮮は新羅が935年まで続き、高麗(こうらい)(?1392年)に
とって変わられる。
この高麗(こうらい)と高麗(こま)は関係ないようですね。

これ以前
57年倭の奴の国王(北九州)が後漢光武帝に朝貢、印綬を受ける。中国。
239年卑弥呼が朝鮮帯方郡を通じ中国魏の明帝に朝貢し、印綬を受ける。
中国北部と繋がり。
卑弥呼は九州に居て、その後の神武天皇の頃東へ移動したのか?
(書記では、日本建国はBC660年頃となっており、神功皇后が卑弥呼に比
定されているが、実は建国はAD200年代らしく、卑弥呼が天照大神で、神
武東征はその後のことらしい?何故東へ移動したのか?)

いろいろ読んだり想像すると興味が尽きないですね。
昔九州にいた頃史跡を訪ねなかったのが残念です。

鈴木


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