メールのHPへの自動登録法 1

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皆さん、

来週の谷中ブルブラは参加したいですが、残念ですね。 楽しんできてください。

Urata123のHPですが、BlogのソフトWordpress を入れまして、皆さんのメールのHPへの自動登録を画策しました。 これを業界では Blog by Mail と言います。 WordpressはBlogの最も有名なシステムです。

HP に保存できる、ないし、してもよいテーマと内容のメール、たとえば 皆さんの「巾着田と高麗若光」メール交換 等を自動保存します。 

やり方は、

1. まず ’nobuour@jpnclub.org’ を To: ないし cc: に付け加えてください。(このメールのTo: に入れました)
2. Subject の最初を ZKT: ーー 直接英数字 としてください。このメールのSubject を参照。 ZKT は「全XX」。 いろいろ考えたが、これが一番と結論。
3. メールの先頭一行目をこのメールの一行目のようにタイプしてください。 コロン:に注意。 先頭一行目はHPのユーザー名とパスワードなので他言無用にしてください。 自動登録でRipーoffされてHPにはでません。
4. 発信すると、’nobuour@jpnclub.org’ に配信さます。
5. この段階では自動化するまではわたしがManualでやりますが、管理者ログインして、Wordpressを走らせます。 皆さんもやってみてください。 

http://www.jpnclub.org/urata123/modules/wordpress/wp-mail.php

をクリックすると、HPが配信メールを’nobuour@jpnclub.org’ に取に行って、「ブログ」 メール全部を登録します。 皆さんの「巾着田と高 麗若光」メールの交換は全メールを入れましたので、ご覧ください。

(注)ホームページのBanner(整列写真)をクリックすると上記URLが実行されるようにセットしました。12/17

それと ZKT: ですが、先頭に識別Word使うのは、この種のメールリストでは、常識で、識別Wordによって、メーフォールダーに自動振り分けを して、事務効率をあげます。 鈴木さんが一度提案しましたが、皆さん反応が全くありませんでしたね。 なさけない。

とにかく、 皆さんのメール交換を編集してわたしが、HPに掲載してきましたが、もうこれ以上の作業はやりたくないので、BlogとXOOPS技術で自動化しました。

それでは、できましたら使用開始をお願いします。メールをHTMLにして、画像を貼り付けて 自動登録した場合どうなるかまだチェックしてません。

XOOPSはメンバーそれぞれにもBlogを提供できてそれ自身SNSを立ち上げられる 巨大システムなのです。 Blogには写真を貼り付けたり、Linkをつけたり自在に出来ます。 要するに HTMLで記述できます。

それではよろしく。

浦田

 


今年のもみじの紅葉

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清水さん

モミジの写真、楽しませてもらいました。いずれもよい写真ですね。
紅葉は紅と黄が組み合わさると相互に映えること、
光線の加減で紅葉や黄葉はずいぶんきれいになること、
などを、アップされているモミジの写真集を見ながら改めて感心しまし
た。

落ち葉の赤が敷き詰められている中の鮮やかな黄葉の写真、射し込む日の
光を浴びて
紅と黄が混ざり合い燃えているような写真、など傑作だと思います。

来年の紅葉狩りの参考にさせていただきます。

木原
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Subject: 今年のもみじの紅葉

皆さん、

今年の春、見飽きるまで見てやろうと桜を追いましたが、
この秋は、もみじの紅葉を見飽きるまで、と追って見ました。

天候が不順だったので、今年の紅葉A
F色が悪い、とあちこちで聞きましたが、
昨年までを知らないので、それなりに紅葉を楽しみました。

素晴らしい紅葉をみるには、
紅葉に適した天候条件であったこと、
もみじが紅葉の綺麗な品種であること、
ベストな時期に見に行けること、
等が必要なのでしょうが、
それらはあまり選べる条件ではないので、
結果として、個人的に楽しめた条件を書いてみます。

・晩秋の日差しは弱いので、色を楽しむには、逆光にして、
 葉を透して見るのが、真っ赤に色が鮮やか。
 加えて、空が
っ青ならば、最高!の気分。
・夕日暮れ時の、夕日を受けた紅葉。
 赤さが一段と増し、周りの黄葉した草木も雰囲気を出してくれます。
 又、早朝散歩で、朝日を浴びた時の紅葉も綺麗でした。
・雨上がり。木の幹が真っ黒になっていて、日を浴びた赤い葉が
 コントラストが強まって、綺麗でした。

桜は、都心にも郊外にも溢れていましたが、
もみじの紅葉は、意外に少なかった。特に、都心が。
共に人が鑑賞のため選んで植えている木だが、
京都と東京では感性が違うのだろうか?
D心ではむしろ(本来観賞用ではない)イチョウの黄葉が目立つ。

まだ見飽きるまでにはいたらず、”京の紅葉”と”山の紅葉”を、
次の機会に追求してみます。

紅葉の写真をULしました。
ご覧ください。

清水
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写真内容:

真っ赤な紅葉
 秩父御嶽神社の東郷公園:
 真っ赤なもみじは、先日の鳥居観音が一番鮮やかでしたが、
 ここのもみじも真っ赤でした。
 もみじの下の銅像は東郷元帥です。

燃える紅

 秩父御嶽神社:
 真っ赤なもみじの紅葉と黄色のもみじの黄葉が重なると、
 黄色が燃えるような色に見えてとても綺麗でした。

散った紅葉
 秩父御嶽神社の麓:
 紅葉の葉が一面に散って、その中で黄色のもみじが綺麗でした。

もみじの散歩道
 嵐山渓谷の散歩道:
 もみじのアーチの中の散歩道
 小春日和のような暖かな気分になれる道でした。

イチョウと紅葉
 嵐山渓谷の入り口あたりの民家:
 イチョウの黄色い葉っぱが一面に降り積もっていて、
 その中に真っ赤な2みじの紅葉でした。

公園の道
 近所の公園のもみじ

燃えるもみじ
 多摩湖畔にある玉湖神社の境内で

童子と紅葉
 丹沢/大山の大山寺の入り口
 ここも真っ赤なもみじが沢山ありました。

夕日の紅葉7
 多摩川、辺りの夕日に映える紅葉
 夕日のために一段と赤が強調されていました。
 (逆光でなくても真っ赤になりました)

林の中の紅葉
 平林寺には広大な林があり、そこはもみじの木が一面にあるのですが、
 気候が悪いのか、時期が悪いのか、
 色のいいもみじは少な1ったのが残念です。

林の奥
 平林寺の林の中で。
 
公園のもみじ
 神代植物園の近くの公園で
 
もみじ並木
 野川公園のもみじ。
 このもみじ並木の紅葉は、去年の方がはるかに良かったです。
 やはり、今年は不調か。

夕方のもみじ
 井の頭公園の端を通過する玉川上水で。
 夕日で綺麗になっていました。

紅葉遠望
 隣の尾根から眺めた鳥居観音の紅葉道

もみじの葉
 旧古河庭園で。
 紅葉はあまり綺麗ではなかってので、
 綺麗に見えた葉の写真。

池のもみじ =0
D
 六義園で。
 ここも、もみじが真っ赤ではなく、
 枯れた茶色のもみじになっていたので、
 池に浮かんだもみじの葉を写しました。

謎のもみじ模様
 不思議な写真になりました。
 この成り立ち、わかりますか?


巾着田と高麗若光 6

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鈴木さん

なるほど、コマとコウライは、時代が異なる国の呼び名なのですね。

今よりもずーっとアジアに繋がっていた時代だったのだな、と感じまし
た。
日本と言う意識になったのは天武時代ですし、
卑弥呼の時代は、数ある豪族の間で、競って中国からの権威を受けよう
としていた時代だし、
飛鳥の時代は、相対的に強くなって、連合体のトップ豪族として、
中国との関係を模索(強がったり、積極的に受け入れようとした
り、・・)
した時代だし、
アジア=中国&朝鮮半島の情勢・文化の傘の中にいた時代ですよね。
だから、弥生時代も含めて、アジアの中の一地方として考えないと、
古代は良く見えないのだな、と感じました。
・・・も又同じ状況になってきていると感じます。

清水


巾着田と高麗若光 5

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清水さん、

高句麗のこと、九州王朝、大和朝廷と中国、朝鮮の関係など。
清水さんのメールを読んで、海音寺潮五郎の「大化の改新」という本を読
みかえしました。
日本書紀にもとずいた本です。高句麗の滅亡の話は出てきませんでした。
以下この本とわたしの疑問、感想などです。

391年倭軍、海を渡り、百済新羅を破り、高句麗と戦うとあります。
高句麗は好大王の即位が391年。日本は神功皇后か15代応神天皇の時代。
この頃任那が成立したらしい。
朝鮮は北に高句麗、西に百済、東に新羅、南に任那となった。
この後400年、404年など度々高句麗と戦っているようだ。

倭の五王の時代を経て、三韓経営は困難となり、
527年、26代継体天皇の時代、任那失地回復のため、近江毛野が6万の軍を
率いて遠征の途にのぼったが
筑紫の国造磐井の反乱により九州で足止めされる。
北九州は大和朝廷の朝鮮出兵の都度収奪を受け反意を抱いていた。これを
察知した新羅が磐井に賄賂を贈り反乱を勧めたとのこと。磐井のみならず
北部九州全体の反乱だった。
九州王朝は高句麗を通じ中国北朝と繋がっていた。
倭の五王は南鮮を通じ中国南朝へ朝貢し倭国王の称号を受けていた。
大和朝廷がこれだけ朝鮮にこだわったのは鉄資源が豊富だったからだけで
なく、父祖の地だったからか?

高句麗は668年に唐に敗れて滅亡。
不倶戴天の敵だった高句麗も滅亡し亡命する人々が高麗の地に来たと言う
訳ですね。
この後、朝鮮は新羅が935年まで続き、高麗(こうらい)(?1392年)に
とって変わられる。
この高麗(こうらい)と高麗(こま)は関係ないようですね。

これ以前
57年倭の奴の国王(北九州)が後漢光武帝に朝貢、印綬を受ける。中国。
239年卑弥呼が朝鮮帯方郡を通じ中国魏の明帝に朝貢し、印綬を受ける。
中国北部と繋がり。
卑弥呼は九州に居て、その後の神武天皇の頃東へ移動したのか?
(書記では、日本建国はBC660年頃となっており、神功皇后が卑弥呼に比
定されているが、実は建国はAD200年代らしく、卑弥呼が天照大神で、神
武東征はその後のことらしい?何故東へ移動したのか?)

いろいろ読んだり想像すると興味が尽きないですね。
昔九州にいた頃史跡を訪ねなかったのが残念です。

鈴木


巾着田と高麗若光 4

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清水さん、
お蔭様でまたまた賢くなリました。

ところで、こういう歴史的な話になると、本来関西の方が多いはずなのに
なぜか縁遠かったです。(私が知らないだけかもしれんが)
京都は観光化していて、また有名すぎて、普通の空間の中に
息づいている歴史を見るという体験が殆どありませんでした。
(今から10余年ぐらい前の安土城跡は、観光地化しておらず、石垣を見な
がら天守閣跡まで昇ると
織田信長が得意げにここを駆け上がったのかなと感慨にふけりましたが)

どうも、関西人は(京都、奈良は別として)歴史とか、史跡に冷たいので
すかね。
あるいは、商売道具ぐらいにしか考えていないのかも。

長野


巾着田と高麗若光 3

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長野さん、鈴木さん

高麗は、コマです。私も、時々、コウライとも読んでいたので、
何が違うんですか?とこの古道研究家に聞くと、
コマが本当で、コウライは、コウライ人参などが有名だからでは?
とつれない返事。
コマは、高麗・巨麻・巨摩・狛・・など渡来系ゆらいの地名だそうです。

高麗若光は、高句麗=高麗の亡命民団を率いてきて、この日高に定着した
代表者で、
それを称えて、高麗神社や聖天院などがあります。
ここにも面白い話がありますが、この次に。

巾着田は、高麗にあるユニークな地形の所で、曼珠沙華で有名です。
今年出かけて撮った写真も、浦田さんのアルバムに9月頃ULして有りま
す。

清水


巾着田と高麗若光 2

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清水さん

とても興味深い話ですね。
日本書紀かなにかに載っているんでしょうか。
巾着田とは地名?高麗若光とはなんですか。

鈴木


巾着田と高麗若光 1

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清水さん
あの高麗(コマ)は、高麗のことだったのですか?
家内が(こうらい)と読むのでからかったのですが
じつは関係あったとはしりませんでした。

長野


巾着田と高麗若光

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皆さん、

昨日、快晴で寒い中、「古道を歩く」は、飯能の「高麗」でした。

飛鳥時代、高句麗の崩壊で受け入れた高句麗王朝の一族が、
関東の開拓を含めて、亡命(?)を認められ、
まず、大磯に上陸、そこから北上して、多摩丘陵を越え、
府中を通って、巾着田の所に定着した。
この高麗若光の跡をたどる企画でした。

高麗若光の館跡と推定される高台からは、
長閑な巾着田の晩秋の風景が一望できる、
素晴らしいものでした。

多摩丘陵も含めて、関東には、渡来人の遺跡が多々、あるとのこと。

春に秩父を廻っていて、「和同開珎」の起源、
こんな田舎で、あんな古代に、山師の商売が成り立った
理由が不思議で、その後色々調べてみたら、
銅の発見者は、渡来人だった。
それが、これの高麗若光と繋がってた。

飛鳥時代は、まだ日本がアジアに開けていた時代で
(というか、アジアに繋がっていた時代で)
漢が崩壊し、隋が統一する前の混乱期。
世界は軍拡時代で、青銅製・鉄製と武器が飛躍的に進歩していたが、
日本には輸出品が無く、輸入がままならないため、
朝鮮の技術者を呼び入れて、全国的に鉱山資源を探させていた。
その結果が、「和同開珎」や「高麗若光」だった、
と個人的に了解したしだい。

清水


新カルチャーツール HP マニフェスト 

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皆さん、

HPを立ち上げて、面倒をみさせていただいてるのは、一つの実験的試みと申し上げました。 誰もおぼえていないとは思いますが。 インターネットとHP技術の出現で、ある程度のサイズの人間の集まりがグループとして知識、情報を交換し、経験、体験をグループメモリー、グループアルバムとして、5年後10年後、さらには子供たちに残せるようになったわけで、大げさかもしれませんが人類が獲得した新しい道具です。 Wikipedia をみても解るように、人類の知識の拡大がエクスポーネンシャルに加速してますが、この新しい道具の使い勝手はどんなものか というのがわたしの興味でもあるわけです。 もちろん皆さんに何かしらのサービスを提供することも一つですが。 

というわけで、この線に沿って、

今回、「杭州西湖」で、高岡さんの投稿にわたしの ショート評論を付加しました。

清水さんの「古代の道を歩く会」のメールに始まった、やり取りは将来のこの種のカルチャーの発展方向を予見させるのではと考えたので編集してみました。 結果は以下の通りです。 編集に時間がかかりすぎましたが, ご覧ください。

。 最後の磯部さんのメールがテーマを多岐にし、全体の流れを拡大してることがわかります。 さあこれからさらに展開しそですが、残念ながら、女性陣の参加が少ないこともあって、充分話を受けて続けることが出来ないわけです。 

近い将来、皆さんのメールを現HPのWordPress(Blog)に自動転送して、半自動編集にしたいと考えてます。

皆さんの御意見、御提案を歓迎します。

趣旨を御理解いただき、長野、吉富氏も参画ください。

浦田


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