皆さんの下町の感覚一覧表

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下町                    

2008/12/20

皆さんの下町の感覚を一覧表にしました。
地形図を見つけましたので、地名を入れました。
上野は武蔵野台地の東端で半島のような形になってます。ややこしいところにあります。

長野さんのwikipediaの解説を読むと商工業の集積した町人町ということのようですね。

地形だけ、文化だけということでなく、双方相俟ってということだと思います。
日本だけというか東京だけの文化ということのようですね。

鈴木         

発言者

意見

下町の定義

浦田さん

目黒、世田谷から見ると、上野、本郷界隈が下町という感覚なのかと驚いたわけです。 こちらは目白がなじみで、巣鴨、日暮里は地続き、上野、本郷、湯島界隈はお隣で、下町という感覚はありません。
 下町というと、浅草、築地、八丁堀、等々でしょうか。 東京育ちではないので、大きなことは言えませんが。 

上野は下町ではない

長野さん

「下町」とは、旧東京市街地という意味でしょう。
恐らく明治初期には上野の当たりが新興住宅街、それから山の手へとどんどん住宅街が発展していった、だから新興住宅街からみれば歴史とか重みは当然古いほうがあるわけで、下々の町というよりも古くから生活を営んでいた重みのある町という意味だと解釈しています。
そういう意味では、浅草、両国、深川とかが先なのでしょうが、私個人としてはあまり面白く感じておりません。
例えば、広重が描いた両国花火の風景の名残(有形、無形を問わず)でもあればよいのですがその点がどうも、といったところです。

歴史の重みあるところ

鈴木

本郷台地から東にかけて低くなって行くところが下町だと思ってました。
上野、秋葉原、神田などです。神田明神の断崖から下を見ると下町という感じがしました。
しかし東京駅、有楽町、日比谷、神保町、九段下あたりは、土地は低いですが下町とは言わないですね。言うのかな。
ニューヨークとかサンフランシスコの海に近い低い場所はダウンタウンという感じですが、低いだけでダウンタウンと言うんでしょうか。定義があるんですか。

低いところ

長野さん

私も本当はそうだと思っていました。
つまり、江戸の町人は低地に住んでいて、台地は武家屋敷だから下町〜町人の町ということなんだと思っていました。

町人の町

桑原さん

下町は私はあまり違和感がありませんでした。上野あたりからそういう感覚です。

上野あたり

千谷さん

目黒育ちの私は神田から池袋を結ぶ線から東はすべて「下町」だと思い込んでいました。
今回は散策前に昭文社(地図で有名な会社です)の『東京下町散歩』というガイドブックを見ていて、そこに挙がっている地名は浅草、谷中、根津、千駄木、上野、神田、日本橋、築地、深川、両国、神楽坂、巣鴨、柴又、錦糸町などだったので、何の疑問もなく我々の歩いたのは「下町」と思っていました。
ちなみに広辞苑を引いてみると、下町は「台東区・千代田区・中央区から隅田川以東に渡る地域をいう」とあります。これに従えばいわゆる大名屋敷があった地域も多く含まれることになります。港区あたりが境界ということでしょう。渋谷は江戸時代は渋谷村という寒村でしたし、新宿は甲州街道への単なる宿場町でした。
東京の山の手というのはもともとは雑木林や田畑だった後進地域(私の小さいころの目黒のはずれもそうでした)であまり文化がないところでした。田園調布が開発されたりもともと田舎から出てきた軍人(私の祖父も父も軍人でした)、学者、事業家あるいは芸術家などがその後住むようになって、文化的な雰囲気が後付けで生まれてきましたが、お江戸の文化にはまったく縁がないところです。ですから山の手の人から見ると下町は、武家も町人も含めたお江戸の伝統と文化に彩られた歴史に憧れを感じながら、観光客としてしか立ち入ることができない特別な地域なのです。私は今回ほとんど初めて観光客として「下町」を散策したということになります。
それにしても「下町」という分かっているような言葉にそれぞれの異なった色々な理解や思いが込められていることが大変面白かったです。

池袋、神田から東。

 

 

 

 

 

山の手は江戸文化が無いところ。

浦田さん

 

地図をじっと見てみました。 さすが広辞苑。 そうすると、皆さんは下町ー山手 境界沿いを歩きながら、 下町(谷中、台東区)から山の手へ(本郷、 文京区)と横切ったわけだ。 だけど かの有名な 上野の森の芸大が下町にあるとは誰も言うまい。
下町は「ひ」と「し」の発音が区別できない人たちが住んでたところ − わたしのイメージ。

シスコでは海に近い低いところをダウンタウンとは言わないと思います。 「ダウンタウン」は歴史的カルチャーの観念なので、 アメリカではバー、サロンがあって保安官事務所、銀行、鍛冶屋、があったところで、近年までは住民にとっては非常にクリアーなものだったのでは。 ヨーロッパの城塞都市近くのCentrumも「ダウンタウン」を象徴する機能が集中して、ダウンタウンの範囲は人々の頭の中ではクリアーだったと思います。
ヨーロッパ城塞都市でも同じ感覚なのでしょう。

上野は下町ではない。「ひ」「し」の区別ができない人が住んでいたところ。

高岡さん

ダウンタウンを直訳すると下町になるので、錯覚を起こしやすいのですが、アメリカの多くの都市には、浦田さんの定義を発祥とする、あるいはそれと似たようなダウンタウンがあるのに対して、日本の下町という言葉は東京だけだと思います。

京都の下京は御所に対して南の方が下、北の方が上という概念なので、これはまた違いますね。横浜にも下町という言葉はないと思いますが。 

下町は日本の文化。

清水さん

なるほど、「下町」と言うのは、東京だけの用語なのですね。気がつきませんでした。
私も、千谷さんと同じように、神田から池袋を結ぶ線から東(北)はすべて「下町」の感覚でした。
基本的には、江戸の町の歴史を引き継いでいて、木の無い家並み、のイメージです。

池袋、神田から東

浦田さん

清水さん、鈴木さん、千谷さん、三人とも 山手ー下町の境界は池袋ー神田ラインとはビックリ。
わたしの境界ラインは 南北のほぼ直線で、 南から
山手(西)| 下町(東)  
ーーーーーーーーー
麻布   |  芝
葵町   |  新橋      
銀座   |  築地
八重洲  | 八丁堀
神田   | 日本橋
秋葉原  | 柳橋
上野   | 浅草
千束は田舎
だいたい文京区の連中と台東区の連中はカルチャーが全く違ったと思うので、 「池袋ー神田ライン」と聞くと頭から湯気が出てくる。 長野さーん、御登場願います。

上野、神田、銀座は下町ではない

高岡さん

下町についてざっと調べてみた範囲では、どのあたりというのは書いてあるのですが、名前の由来が書いてないので、はっきりした定義がないのでしょうね。しかし、下町は山の手と対で使われる言葉なので、物理的な上下関係で、下町といわれるのだと思います。

 したがって、根津、谷中以東は下町で本郷、西片などは山の手と思っていたので、小生も浦田さんの感覚に近いのですが、秋葉原は下町、上野、神田は下町と山の手の境で、上野広小路あたりは下町、上野公園、芸大辺りは山の手、神田も須田町辺りは下町、淡路町辺りからは山の手になってくると思いますね。

 銀座も下町だったように推測しますが、高級店が並ぶようになって、イメージとして下町感覚がなくなってきただけなのでしょう。地理的には下町ですね。

上野、神田は境界

清水さん

「下町」の対が「山の手」なので、確かに、東京独特の表現ですね。「下町」のイメージも大分色々ですね。
対の「山の手」の私のイメージは、向田邦子が「あ・うん」等で描いた戦前の東京や、或いは、怪人二十面相が出てくる戦前の東京の住宅地です。武家屋敷の崩れた跡地に食い込んだ塀や生垣で区切られた家並み、暗い道にポツンポツンと立っている裸電球の街灯、時に、大きな木がかぶさっていて昼なお暗い道があったり、その先に洋館の建物があったり、と言う何故か暗い世界のイメージです。
(寒いこの季節にイメージしたからかな?)

戦前の東京の住宅地が山の手

長野さん

私は、下町がどこかというよりも、西洋とは一線を画す固有の江戸ー東京独自の文化なり風土なりを持つ地域を勝手に下町と呼んでいます。
少なくとも鹿鳴館は下町文化とはいえないことは明らか。即ち、明治以降の近代化の中にあって西洋コンプレックスから無縁の(あるいは無縁と思える)地域を下町と考えています。そうすると上野の山は下町といえるかというとそうともいえないな。
いずれにせよ、見下すような意味合いは皆無で、むしろ日本が自慢してよい地域と考えているので、下町と呼ぶことは新興住宅地ではないという意味の褒め言葉の意味です。まあ、もうひとつ言えば「下町」の距離感というか、時空間のゲージが気に入っており(今すんでいる上板橋もそう)、(例えば神田の古本屋も全体が醸し出す、立て込み方がなんともいえない。ついでに言えば朝倉邸も日本人の寸法感覚にあった作りが大変気に入った)これに合致するところを勝手に下町と呼んでいます。
全く答えになっていないが。

江戸文化のあるところ。

 

浦田さん

長野さんの Wikipedia 「東京市街の変遷」は知りたかったことのかなりを説明してくれてます。 なるほど。
結局、明治に入れ替わった山の手の新住民は、江戸期の山の手文化を継承しない薩長土肥の「田舎者」だったわけだ。
上野東照宮は写真で見ても落ちぶれたたたずまいで、鬼気迫る雰囲気を感じました。
中国流に言うと、「前皇帝の王宮 −江戸城」に新皇帝が入り、前皇帝の一族は落ちぶれたとはいえ、その隣の墓所で眠っているという、はなはだ平和的な時代変転があったわけで、江戸総攻撃中止、無血開城の後世へのインパクトを痛感します。 東京郷土史は即日本史ですから、面白いですね。
Wikipedia
 で 「江戸」を検索したら、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Edo_1844-1848_Map.jpg
弘化年間(1844-1848年)改訂江戸図という、高解像度での画像? (5,625 × 4,769 )が出てきましたのでDownloadしてじっくり見ました。 高価な三層地図の替わりに、これと、現代地図をかさねればよさそうですが、縮尺精度は充分なのでしょうかね。
小石川から、護国寺への道が信じられないほど広いのですが、どうしてでしょうか。

山の手は田舎者。

 

東京地形図:www.komazawa-u.ac.jp/~yasushi/research/digital_map/Tokyo5m-DEM/tokyo_l.jpg
地名を入れました。

 

 


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