: 
投稿者: nobuour 投稿日時: 2008-8-5 16:17:00 (1452 ヒット)


2006年来、北加においては原爆被爆者の皆さんの極度の高齢化、減少で、慰霊祭は中止となっています。
今年は過去の慰霊祭への献花のためのアレンジメントの記録をまとめて、
1ページの html をつくりました。 写真の方々は奉仕と勉強をかねて、
アレンジメント作成にかかわった生徒さんと先生です。             合掌

アレンジメントの写真をクリックすると拡大します。 人物写真は拡大しません。



1 2000年 メモリアル


2 2000年 メモリアル  


3 2000年 メモリアル  



4 2000年 メモリアル  


5 2005年 メモリアル  


6 2005年 メモリアル       

 

7 2006年 被爆者食事会の様子 1
  会員減少のためメモリアル中止 


8 2006年 被爆者食事会の様子 2
 メモリアル中止


9 2006年 被爆者食事会の様子 3
 メモリアル中止



10 2006年 感謝状授与


11 2006年 


12 倉本寛司さんの著書 ? 自費出版

 

参考
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
倉本寛司 「私とアメリカの被爆者」
目次
ーーーーーーーーーー
父を探して
協会設立と組織
検診医師団
加州議会での法案
ワシントンへの働きかけ
沢山の支援者
医師法
表敬訪問
協会分裂
被爆者と将来

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
袖井林二郎 「私たちは敵だったのか」 岩波同時代ラブラリー 増補新版

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
上坂冬子 「生き残った人々」 文春文庫

music "Wave -- Brazilian Jazz"
played by http://www.shoheiurata.com


 : 
投稿者: nobuour 投稿日時: 2008-7-17 6:38:14 (1475 ヒット)


池袋ミニオフ会の動画 2008-07 (杉本さん、浦田)と 写真(浦田)を掲載しました。


杉本さん動画 ここをクリックしてください


浦田動画 ここをクリックしてください


ホームページに戻ります。


写真はクリックして拡大してください。


1 名古屋ミニミニオフ会 高島屋 資生堂パーラー

浦田、富田

2 池袋オフ会 池袋メトロポリタンホテル 花むさし

深田、石黒、糸川

3 池袋オフ会 池袋メトロポリタンホテル 最上階喫茶店

深田、小野原、斉藤、石黒、糸川


 : 
投稿者: nobuour 投稿日時: 2008-3-8 1:25:00 (2339 ヒット)

春の訪れ  ここをクリック 

北カリフォルニアは一月も末の頃になると昼間の温度も上がり、ナシ、桃、スモモ、の花芽が膨らみ始める。 オレンジ、レモンなどのかんきつ類は冬の間も、陽を受けて育つ.  1月19日

春の訪れ 2 ここをクリック 

近所の写真をとってみた。 1月22日 曇天

剪定の時節 ここをクリック 

二月がはじまると、桃科の花が一斉に咲き出し、「春たけなわ」になります。 一月下旬の今の時期が、剪定の最後のチャンスなので家内ははしごに登り半日働いてました。 剪定は長い付き合いの日系の方々に昔教わったのです。 この地には日本移民の伝統が脈々と流れてます。1月28日 曇天 

梨の花の時節  ここをクリック 

ことしは寒さが少しきついようだが、立春から数日、梨の花が一斉に咲き出した。 白い清楚な花で季節を通じてもっとも好きな花だ。 バードオブパラダイスもはちきれんばかりにふくらみ開花直前。 アレンジ用の蘭も初春の光を受けて美しい。 2月9日 晴天 

バレンタインデーとアーモンドの開花とボケ 晴天 2月13日 ここをクリック 


豊かな八重の花びらの野生のスモモ 2月22日 ここをクリック 


アプリコット(あんず)の果樹園 3月9日 ここをクリック

サンタクララバレーのサニーベール市は、シリコンバレーの中心に位置し、市内と近郊には、NASA(ナサ)、ロッキード、ヒューレットパッカード、アップルコンピューター、サンマイクロ、グーグル、ヤフー、インテル、AMD等のハイテクカンパニーの本社がひしめいている。 だがサンタクララは50年前は、果樹園、花園のひろがる北カリフォルニア有数の農業地帯。 日系移民もたくさん働いていました。 我が家から数分のところにかつての果樹園の一つがまだ栽培を続け、周りの景観とともに保護されています。 いまは三月のなかごろ前、七分咲きだったアプリコット(あんず)が二日たった今日もう散りだしたので、あわてて写真撮影。 サンタクララバレーは春の終わりの様相で、日中は初夏の日差しになります。 杏、桃、スモモ、さくらんぼが実をつけ急速に熟してでしょう。

日差しが強くなり、ヤングたちは半そでないしノースリーブに半ズボンだ。 わたしは今朝着替えを忘れてまだ黒のコールテン。 白い梨の木の花も殊に美しい。

散歩で今日もOrchard Heritage Park にやってきた。3月13日 ここをクリック  

アプリコットはガクだけになって枯れ木みたいに見える。 あとで サンタクララの写真を探してたら、 ウインチェスター氏の妻、 サラ ウインチェスターのカラー写真がみつかる。 

りんごの花が咲きだす。 3月19日 ここをクリック  


桜の園 (Cherry Orchard) 3月19日 ここをクリック  

チェリーの週になりました。 広大なチェリーオーチャード(Cherry Orchard)が半分売られて、ショッピングセンターになり、のこり半分は市営の桜の園として残されました。 市営のテニスコートに隣接りしてます。

八重桜がほぼ満開になりました。 4月5日 ここをクリック  

四月になるとサニーベルの図書館にある八重桜がほぼ満開になり、 遅咲きの梨の木も葉の緑が白い花を押しやるようになります。

御近所の前庭 4月17日 ここをクリック  

四月も中旬で近所の前庭には晩春から初夏の花が盛りです。 戦前の日系の方々の生活を偲ばせる全然芝生のない花と野菜の金沢さんの庭を中心に御近所の前庭(Front Yard)を撮りました。 

昨日に続いて今日も近所の写真を撮りました。

デジタル一眼レフ EOS KISS のEFS 18?55mmとEF 75?300mmで写真を撮る. 5/15/2008


 : 
投稿者: nobuour 投稿日時: 2008-1-19 1:23:37 (1516 ヒット)

今冬のカルガリーは降雪量が少ない。年々、スノーストームが減って来ているのは有り難いが近くでクロスカントリースキーを楽しむ事が出来ない、、、。 画像で紹介したとおり、昨日もカモ類が我が家の上空を朝夕飛来する、これが真冬の光景とは誰が想像するだろうか? 





今朝の気温ー6℃ 少し雪が降るとの予報だ。


撮影時刻 1月18日17時40分






写っている鳥は全てカナダグース


北側の空に月が出ていた


土田紘一さんのブログサイト:      http://red.ap.teacup.com/kimkoi/76.html


 : 
投稿者: nobuour 投稿日時: 2007-10-9 6:54:14 (2545 ヒット)

アメリカの神話が崩れた日
岸聿子

 2001年9月11日(火曜)、いわゆる「あの火曜日」、私は名古屋空港を飛び立ち、Delta32便の中にいた。そしてその三時間後、ニューヨークの世界貿易センターがハイジャックされた二機の飛行機に体当たりされ、恐るべき火の玉となって崩れ去っていた。さらに他の一機によりワシントンDCの軍事施設ペンタゴンが、そして四機目がピッツバーグの南、キャンプデイビッドの近くに墜落。恐らくアメリカの心臓部といわれるホワイトハウスを狙ったものと見られている。

 このアメリカ全土、いや世界中を震撼させた大事件によって、我々に降りかかった混乱と難儀は、実は、9日、日曜日に始まっていた。この日八丈島あたりに生れた台風15号が迷走の末、名古屋を直撃すると見られたからである。Delta32便は9日(日)ロスアンジェルスを発つ33便であり、10日名古屋空港に着陸して二時間後、我々を乗せ32便となり再びロスへ向かうことになっていた。しかし飛行場の使用料は一時間当たり百万円であるらしく、9日の天気図は確かに名古屋を直撃するように見えた。果たして、ロスからの33便は欠航となり、当然10日の32便ロス行きも欠航となった。台風は結局静岡に上陸、名古屋は青空の見える「そよ風」に過ぎなかった。

 「一日くらいの出発の遅れは何でもない」と思った。しかしわれわれには知らされなかったが、名古屋を出発して三時間後、「あの悲劇」は起こっていた。名古屋を飛び立ったのは11日(火曜)午後6時15分だった。アメリカ、イースタンタイムでは午前5時15分、ハイジャックの一号機が貿易センターに体当たりしたのは、三時間後の8時30分頃だった。

 私はロスでの乗換えの難しさを過去に味わっていたため、ロスでは、なるべく早く飛行機を降りようと一番先に手続きをすませた。エコノミーの前から2番目32Aの席だった。そしてその横には、その後大変なお世話になろうとは露知らず乗り合わせた浦田伸夫という方が座っておられた。何気なくお互いに名乗りあうと、たちまち意気投合?してしまった。共にアメリカに生きるハンディと魅力を共有していたからであろう。彼については後で記す。ただここでは、彼が後に言ったコメントだけを紹介しよう。「恐らくコックピットには早い段階で事件が知らされ、北へ向いていた機首を南へ向け、ハワイに緊急着陸せよとの命令がくだされていたに違いない。それは機内の混乱を避け、機長とコックピットだけが握っていた情報だったのだろう。」 彼のコメントを裏づけるように、我々より少し先に出発したDelta機は、その分北に向かいすぎており、ハワイへ向かわずアラスカに着陸したらしい。「二日間寒さに震え、仕方なくジャケットを買う羽目になった」と、14日ロスからアトランタへ向かう飛行機の中で出会った、日本人のスチュワーデスが話してくれた。ハワイに降りたわれわれはラッキーだった。

 さて再び11日のDelta32便の機内に戻る。名古屋を平和裏に出発すると、まもなく飲み物、夕食のサービスがあり、皆眠りについた。私はなかなか眠れず、持参した安定剤を飲み、うとうと四時間くらいしたであろうか。外はもう真昼の太陽がまぶしかった。ふと機外に目をやった。一機の戦闘機が直ぐ下を飛んでいる。そしてやがて消えた。一緒に見ていた浦田さんがつぶやいた。「おや、ずいぶんなニヤミスですね。」更に言った。「それに、おかしいな。この飛行機はずっと北を通り、それから南下してロスに着くはずなのに、かなり南を飛んでいますよ。」その時だった。
 機内アナが流れた。“We’ll be landing in 15 minutes. Please fasten your seat belt and remain your seat. This is an emergent landing. You’ll hear the detail at the airport.”(あと15分で着陸します。これは緊急着陸ですが、詳細については着陸後にお知らせします。)

 着いたのはなんと、ハワイのホノルル空港だった。だが、どうもハイジャックではなさそうだった。あれほどロスでの入国手続きののろさと、長時間長蛇の列を思い、うなされて来たのに、ここでは殆ど列もなく、手続きも一人30秒くらいで終わった。おかしい、何かある。わたしたちの胸を不安と、えも言えぬ苛立ちがよぎる。しかし、そこには何のアナウンスも情報の提供もなかった。あわただしく、その代わり余りにもあっ気なく入国手続きが終わり、手荷物を受け取ったときだった。いつの間にか浦田さんがわたしの横に立っておられた。「どうやら、ニューヨークのツインビルがテロにやられたらしいですよ。ぐずぐずしているとホテルもタクシーも手に入らなくなる。急ぎましょう」と。何がなんだか不明だったが、ただならぬことになりそうだとの予感がした。

 彼はハワイへ何回も来ているらしく、観光案内所もよく心得ておられた。そこはみるみるうちに大勢の人でごった返し始めた。浦田さんはなれた英語でホテルを探している。そこへ背後から、「ホテルですか。僕たちの分もお願いします」と、二人の男性が立っていた。浦田さんは「では、四人分の部屋の空いているホテルを」と言いながら自分のクレジットカードで予約を済ませた。「早くしないとタクシーもなくなるよ。」彼のテキパキした行動にわれわれは着いていくのが精一杯だった。やって来たタクシーは、ダックスフンド型の一見すごく豪華な高級車だった。「料金に15%のチップと荷物一個につき1ドルを加算してください」と、係りのおじさんが英語でまくしたてている。真っ赤なビロードの布で内装され、四人が向き合ってゆっくり座れるスペースのあるシャトルタクシー。タクシー代は割り勘にしようと、これも22年間アメリカで働いている浦田さんの提案にみんなが納得した。タクシー代28ドル×1.5+4ドル=36ドル÷4=9ドルだった。

 ホテルはASTON WAIKIKI Sunset Hotel。同じ8 Fに四人の部屋が決まった。わたしは807号室。部屋に入ってびっくりした。入ると直ぐに立派な台所と炊事道具一式のついたコンドミニアム。大きな電気コンロ四つのあるその下には、大きなオーブンもついている。台所の向こうには10畳もあるようなリビングが広がっており、その間はカウンターで仕切られている。リビングには丸いテーブルに椅子四つ。大きなソファーにはガラス張りのテーブルもついている。ベッドルームにはベッドが二つ。隣のバスルームも一人ではもったいないスペースだ。これで一泊126ドルは安い。それも後になって、“We’ll give you a special price, 90 dollars.” と言われた。それがハワイ全土に特別な通告がなされていたか、あるいはホテル独自の処置によるサービスだったかは不明だが、ローカル新聞に「この悲劇に対して、自分に何が出来るか考えよう」とあった。だとしたらその対応の早さに感動する。

 12時過ぎ四人で昼食に出かけた。ワイキキの浜辺に沿って大道路が走っており、その通りに沿ったハイアットビルの中の中華料理店に入る。自己紹介は既にタクシーの中でしていた。岩瀬さん:自動車会社の技術部の室長。小栗さん:自動車部品会社の設計技術士であることは後で知る。名古屋空港以来隣席に乗り合わせた浦田さんは、サンホゼ近くのシリコンバレーで働いて22年になるということだった。三菱で7年働いているうち新しい数式を発見し、アメリカへ渡った。その時既に二人のお子さんもいたというから、かなり思い切った決断だったに違いない。アメリカ全土はもちろん、アフリカやロシヤへも仕事で行くということだった。こうした経歴を持った彼の決断と行動は実に見事だった。岩瀬さんも小栗さんも会社の同僚から相次いで、携帯のPCへ多くのEメールが届いている様子だった。心配してのものだったが、ハワイと聞いて羨む声もあった?とか。浦田さんは、寸暇を惜しむように自分自身と私のために、何回も予約センター、9-1-800-122-1212を呼び続けてくださった。「岸さんのは、明日の夜、9時30分のフライトがとれました。自分は14日の夜が取れました。これでやれやれです」と。本当に嬉しかった。英語には多少自信があったものの、こうしたビジネスにからんだ駆け引きは、単なる英語力だけではどうにもならない部分がある。浦田さんは根気よく、断られても、駄目だしをくらっても何回もトライしてくださった。

 他のお二人には大会社のサポートがある。特に岩瀬さんはシンシナティの出先機関と連絡が取れ、会社の力で切符が取れるはずだった。小栗さんは会社から待機命令が出ているため、手も足も出ない状態だった。TVには、”America is at war” との帯がついている。ブッシュ大統領は、引きつった顔で「必ずテロの一味を見つけ出し、We will pay for it. (このお返しはきっとしてやる)」と繰り返している。一番の疑いがかかっている Osama bin Laden は、アフガニスタンにいると見られるため世界中が、アメリカの報復爆撃が明日にも始まるのではないかと恐れている。このような時にやたら動けば、又どんな事態に巻き込まれるかもしれないとの恐怖があった。

 それにしてもこのハワイには、次々と緊急着陸した飛行機であふれ、空港にはホテルもなく不安気にあちこちの地べたに腰を下ろしている旅行者であふれているという。ある若い日本人女性がTVのインタビューに答えていた。「早く日本へ帰りたい。アメリカは世界一安全な国だと思っていたのに。一刻も早く帰りたいです!」と。それを見ながら思った。そうか、アメリカは政治、経済、軍事、ハイテクの世界的リーダーであり、いかなる国もアメリカに手向かうことなど出来ないと思われてきた。その神話が四機のハイジャック機によりアッという間に、余りにももろく崩れ去ったのだ。だれもがその耳を疑い、その目を凝らした。しかし、繰り返しTVで見る映像は、まるで映画のようであり、全くのフィクションを見るように完璧な崩壊劇だ。しかもそれは映画ではない。まぎれもなく現実の出来事なのだと、何回も自分に言い聞かせた。こんなにももろく、あっけなく、いとも簡単に、「強いアメリカ、完全なアメリカ」が崩れようとは、誰も想像しなかったであろう。それだけにそのショックは、常のものではない。

 9月12日(水曜日)晴。7時に起き、身支度を済ませると一人で外出。昨日覚えた道を歩き、あちこちに点在するABCストアを覗く。3ブロックほど歩いたところにバナナブレッドとマフィンを見つける。部屋へ戻り備え付けてあったコーヒーを入れて飲む。11時ごろまた四人で話し合い、レンターカーを借り、オアフ島の東部をドライブすることになった。ここでも左ハンドルに慣れた浦田さんが運転をしてくださり、岩瀬さんが地図を広げてナビゲーター役。小栗さんと私はレアシートで楽な役?。先ずはハワイ日系人の19世紀入植当時のご苦労を、知るために、ハワイ日本文化センターを訪ねた。想像を絶する環境の中で、さとうきび畑やパイナップル畑などで低賃金に甘んじ勤勉に働かれた一世のご苦労を見た。また第二次世界対戦では、立派なアメリカ人としてヨーロッパの前線で活躍されたことも、その後の日系人の社会的地位向上に、大きな影響を与えたと、説明役を務めてくださった方から聞いた。
 車はやがて、72号線沿いを走りだした。訪れたハナウマ湾は美しいサンゴ礁が広がるダイビングスポット。大勢の人がシュノーケルとフィンをつけてもぐっていた。羨ましいような、でも今はどこかに危機感を宿していて、そんな気分にはなれないような、複雑な思いだ。海の色は沖縄のものとよく似ていたが、沖の方の色は、紫がかった濃いブルーで、始めて見る色だった。海の反対側は、緑の殆どない砂漠のような山々が連なっている。特にココクレーターと呼ばれる、切り立った山は今にも頂上から火の柱が飛び出してきそうな気がした。ドライブは楽しかったが、私のフライトが今夜9時30分の予約だったので、惜しみつつ5時にホテルにもどる。

 名古屋の友人にもらった「味噌煮込みうどん」を作り皆さんに差し上げる。具のない素うどんだったが、皆さんに喜ばれて驚いた。そして大急ぎレンターカーを空港へ走らせる。空港近くに来た時、皆さんが、「なんだかいやな予感がするね」と。動いているような飛行機の音は全くせず、カウンターの並んでいる受付デスクはがらんとしている。いつもなら様々な車や人々で混雑している道路沿いにはところどころに、三々五々警備員や軍隊の兵士が銃を持って立っている。看板があり、「いかなる車も300ヤード以内に駐車を禁ず」とある。Deltaのカウンターに2,3人の人影が見えたので私が調べに行った。「今日は全てのエアラインがストップしている。明日のことは明日の指令が来るまで分からない。あなたと浦田の名はちゃんとある。そのうちに必ずトライシティへ行けるようにしてあげる。ホテルの名は?」と、それだけだった。出発できると思い、荷物を抱え、若い小栗さんが終始手を貸してくださったのに。「この調子では、明日朝の浦田さんのフライトも危ないね」などと半分冗談を言いながらも、不安は消えなかった。

9月13日(木)晴。昨夜も安定剤を飲んだので目覚めたのは9時過ぎだった。着替えを済まし外出しようとドアのところへ行くと浦田さんからのメモがあった。彼の住所や「道中無事を祈る」とあった。「浦田さんの飛行機は飛んだのかしら」。喜んであげる前に不安がよぎる。昨日行ったABCストアへ出かけ、大きなマフィンとコーヒー、りんご2個、水、牛のチュー、露豆の缶詰を買う。帰途、道路で新聞を売っていたので一部買う。そして歩き出したところへ一台のバスが通りかかった。見ると「airport」とある。ここを空港行きのバスが通るのかと思ったが、その時は、それだけだった。

 通りには人があふれていた。これはひょっとすると長期戦になるかもしれない。新聞を見ると、日本その他から18機の飛行機がホノルルに緊急着陸し、4500人もの人々が滞在しているとある。あるホテルでは、一部屋に六人が詰め込まれていると聞いた。新聞にも疲れ果てた旅行者が飛行場待合室の床の上に座り込んだ写真も出ている。このままではホテルの延長も難しいかもしれない。また、浦田さんのいないことが不安になる。とにかく二晩ホテル滞在の延長をフロントで頼み、部屋へ戻る。

 一人でコーヒーを沸かし、備え付けの鍋にシチューと露豆の缶詰を開け、一緒に暖めた。ブランチのつもりで食べ始めたが、食欲はなかった。浦田さんのメモが気になった。それでも自分に言い聞かせた。「昨夜あれほど静まり返った空港だったもの。まさか今朝9時のフライトが始まったとは考えにくい。きっと彼は帰ってくる。そうしたら、またみんなでドライブだ」などと、思い込もうとした。買ってきたばかりの新聞を、辞書を片手に読み漁る。この三日間これほど真剣に英字新聞を読み、本場の英語のTVニュースを見たことはなかった。ニューヨークのツインビルが、まるで模型のビルであり、そこへ模型かあるいは、CPグラフィックされた飛行機で飛び込んだかのように見える。その見事なまでの映像を何十回見たことであろう。その瞬間の写真が1ページに大きくカラー印刷されている。また次のページには四機が突入した場所と位置が、更に其々の出発地、時刻、搭乗者数、時刻などが記されている。そして首謀者と見られるOsama bin Laden について下記のようにあった。

Osama bin Laden is the face of evil. Bin Laden : The man who Declared War on America. He had a university education in Saudi Arabia. His own fortune is estimated at $350 million (420 億円). He is the youngest of 24 brothers and has 16 to 18 children. In 1998 he allied himself with several militant leaders and issued religious decree ; “To kill Americans and their allies, both civil and military, is an individual duty of every muslim who is able in any country where this is possible.” この記事のヘッドラインにはこうある。Taliban bracing for retaliation by U.S. 50 identified as part of terror team.

12時になっても浦田さんは帰ってこなかった。やがてルームメイカーの女性二人が掃除を始めた。「もう浦田さんは帰らない」と確信する。いよいよジットしてはいけないと思い始めた。彼がいつも電話していた予約センターへ電話をするが、テープが流れるばかり。そうだ先刻見たairport 行きのバスを思い出した(何故かタクシーを呼ばず、バスに乗ることを考えた。そのあたりが悲しい主婦感覚)。ひょっとすると荷物を取りに帰るかもしれない。ハンガーにかけてあった服や洗濯して半乾きのままの物をたたむ間もなく、手当たり次第にトランクの中に投げ入れ、ふたを閉め鍵をかけた。

 フロントでバスの停留所を確かめ、1ブロック南の角へ向かう。バスはすぐ来た。この時点ではまだ心に余裕があった。空港まで1ドル50セント。あちこち迂回しながら、1時間余りでようやく着いた。空港はまだガランとしていたが、Deltaカウンターにも、ANAにも荷物を抱えた人が10数人並んでいた。昨夜パソコンに私の名前を確認してくれた女性のいた受付へ急ぎ、訴えようとしたが、”Those any gentlemen will take care of you.” と言う。みると五箇所くらいのカウンターが開き、其々に客がついている。いきなり空いた場所へ入いろうとすると、”No, no, You must wait behind the man over there.” と静止された。見ると一人の男性が順番を待っている。

 ようやくカウンターボックスが一つ空き、またもう一つも空いたので、駆け寄るように男性係員のボックスについた。男性:「名古屋からの32便のお客は今朝の9時半と12時半の飛行機で出て行ったよ。」私:「え?12時半なんて、今じゃん!。」男性:「今日はもうフライトはないよ。」私:「??」男性:「あ、ちょっと待って。(PCを見ながら)今夜9時55分があるが、スタンバイだよ。」私:「もう何でもいいから乗せてください。」男性:「スタンバイにしてあげよう。3時からの受付で、もう間もなく始まるよ。なるべく早く並んだようがいいよ。もしこれがだめなら、明日の朝8:50発と午後の便二つが確保してあるから。」明日じゃない!今日の便に乗らなければ!体全体に緊張が走った。

 大急ぎでタクシー乗り場へ。係りの人:”You want a taxi?” “Yes, very badly!” とは言ったものの、先客があった。一分が一時間に思える事態だった。やがて私の分が来たが、またあの豪華なダックスフンドだった。なが?いボディにビロウド張りの内装。洋酒も並んでいる。”To Aston Waikiki Hotel, please. Will you wait at the hotel till I go in and get my baggage? I want to come back to the airport as soon as possible. So please hurry up.”
 30分足らずでホテルに着いた。先ずフロントで今朝頼んだ二泊の延長滞在をキャンセル。これまでのホテル代を計算してもらう。その間に大急ぎ8Fへ。岩瀬さんのドアをノックするが返事がない。小栗さんの部屋をノック。「あ、どうぞ」「いや、それどころじゃないの。私今夜の飛行機に乗れそうなの。実は、今朝シチューを作ったままだけど、召し上がってくださいません?タクシーを下に待たせてあるから、荷物をもってすぐ降りるの。」「それなら僕も空港へ行ってみたかったところだから、一緒に行きましょう。」

 結局岩瀬さんも降りてこられ、三人で空港へ急ぐ。お二人はANAのカウンターへ。私は入り口で荷物の検査をされ、スーツケースにはシールが貼られた。それを持って受付カウンターへ。男性職員にスタンバイの切符を見せる。男性:”Do you have any baggage?” 私:“Yes, I have one baggage.” 男性:“Could you wait a moment?” 何か捜し物をしたり、カウンターのむこうへ消えてはまた出てきたりしている。男性:”Sorry, I’ll be with you in a minute.”私: “It’s all right. Take your time. I have a plenty of time.” とわれながら、随分余裕も出ていた。男性:”I thought I could take your baggage in, but it didn’t work. Sorry.”必死な私: “Well, it’s all right. But you see, my daughter is expecting a baby at any time now. So I desperately need to leave here tonight.”(娘にもうすぐ子供が生れるので、今夜どうしても出発したいのです。)とっさの知恵?だった。男性:”Oh, I see. We’ll put you on the plane.” 「え?本当?よかった!」だが、この人の言うことが他の係員に伝わるとは限らない。今までがそうであったように、どこかですれ違うかもしれないのだ。今は、祈るしかなかった。

 8時15分になれば、スタンバイの乗客の名が呼ばれることになった。だが、時計を見るとまだ5時前だった。岩瀬さんと小栗さんは、ANAとの話し合いがうまく行ったらしく、先に別れを言ってお帰りになった。本当に一人きりになった。ホノルル空港は、受付カウンターのある場所は外と内との壁はない。まだ日は高いが後2時間もすれば、外は暗くなるだろう。ここには店はおろか、座る椅子さえ見つからない。外の青空の下に石のベンチらしきものがある。ここでどうやって3時間を過ごせばよいのだろう。2,3電話をかけたり、トイレへ行ったり、とにかく動き回ることで時間をつぶすしかなかった。

 何とか7時になった。何時の間にか人が集まり始めている。最後の1時間はつらいものに思われた。またスーツケースをごろごろさせ、集合場所にと指定された場所へ移動する。そこに大きなステンレス貼りの荷物を載せる台を見つけた。少し高かったがそこに腰掛けると、ふと横になりたくなった。もう、恥も外聞もなかった。その上に仰向けに寝ると、それまで痛めていた腰が伸び、とてもいい気持ちだった。このまま30分でも眠ることが出来ればありがたい。もちろん眠れなかったが、それは実にありがたい場所だった。「あー、テネシーの子供たちの顔を見られるのはいつかな。」そう思った途端、不覚にも涙がほほを流れた。幸い、帽子で顔を覆っていたので、誰にも気付かれずにすんだ。
ようやく8時になった。スタンバイの乗客は2,30人かと思っていたが、発表されたのは74人だった。やがて女性職員が二人パソコンの前に座り、いよいよ呼び出しが始まった。すでに切符の準備は出来ているのかと思ったが、なんと一人一人の乗客の名前を打ち込んでは、搭乗券を一枚一枚取り出し、おもむろに客の名前を呼んでいる。もっと効率的なやり方は出来ないのかと、つい苛立つ。8時55分発の飛行機なのに、もう8時20分が過ぎている。もし、私の前まで来て、「はい、それまで」と言われたらどうしよう。すでにホテルはキャンセルしている。このままこの寒々しい空港で一夜を明かさねばならないのだろうか。そうしたら、さっきの台の上で寝るとしよう、などと覚悟していたときだった。”Passenger KISHI” と呼ばれたではないか!「やったー!これでようやくハワイ脱出が出来る。EXODUS! 旧約聖書の「出エジプト」には比べられないが、おなじ言葉が使われていた。私には正にエキソドスだった。不安げに次のコールを待つ人々には気の毒だったが、大急ぎでトランクを運んで、カウンターボックスへ。係りの方に「あなたの荷物はまっすぐトライシティへ行きますよ」といわれたときには、思わず、”Oh, thank you. That’s wonderful.” と言っていた。「22番ゲートへ急ぎなさい」と。時計を見ると、既に8時30分を回っていた。

 セキュリティを通る。ここでもみんなのんびりしている。厳重なのか、効率が悪いのか分からない。問題なくクリアー。22番ゲートを探す。もう搭乗は終わっているに違いないと急いだが、ゲートには200人ばかりの乗客が待合室の椅子に座っているではないか。それからおもむろに、ファーストクラスの搭乗が始まり、老人、障害者、番号の遅い人から順に呼び出しがあり、全てが終わったときは、9時45分だった。
 かくして三日間に及んだ「緊急避難」からのEXODUS劇は、私の中では終わった。しかしこの国の戦いは始まったばかり。世界中の知恵者、賢者が人間の英知を傾け、この難しい難問を解決してほしいと祈っている。以下に9月26日、テネシー州キングスポートで買った英字新聞の一部を記します。
KINGSPORT : TIMES NEWS
Bush : This is good versus evil
Washington – The Bush administration forget new links Tuesday in its international coalition against terrorism as Saudi Arabia cut diplomatic tie with Afgan. Japan promised to share intelligence data and Russia strongly endorsed the U.S. campaign.
U.S. Today (Atlanta) America on alert
Bush : We’re focused on justice, and we’re going to get justice. It’s going to take a while probably, but I’m a patient man. Nothing will diminish my will and my determination, nothing.
“Needless to say, there is not going to be a D – Day, as such”, Rumsfeld said, “And I’m sure there will not be a signing ceremony on the Missouri”, the battleship on which Japanese surrendered to end World War ??.

この18日間を、歴史的大事件の真っ只中のアメリカで過ごし、日本の危機管理能力はどのようになっているのかとの疑問が消えなかった。それは日々の生活の中で自分を厳しく律することと無縁ではないと思ったからである。Do and act at your own risk.と、浦田さんに教えられた。 (その後彼からのメールで知った。彼は最後まで「岸夫人も乗せてくれ」と頼んでくれたが、満席だったようだ。)



 
Back to Top