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投稿者: nobuour 投稿日時: 2008-1-5 23:14:53 (1724 ヒット)

年末から風邪でダウンして返事がおそくなりました。皆様お元気のようで喜んでいます。幸か不幸か仕事が続いているので暇がありません。それでも2007年は仕事と私用で3回もヨーロッパにいきました。
Russian Trip (Kaliningrad, St. Petersburg, Svietsk, Neman, Frankfurt) Apr 14, 2007
Salt Spring Island(8) May 19, 2007
フランス旅行 june 2007
Elfin Lakes(11) Sep 16, 2007
Dinner Cruise(4) Sep 1, 2007
Wed 1/2/2008
小川 司朗


投稿者: nobuour 投稿日時: 2007-12-20 0:11:34 (1655 ヒット)

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投稿者: nobuour 投稿日時: 2007-12-17 6:56:17 (1345 ヒット)

皆さん、今使ってる マイアルバム はじっくり見るのにはいいのですが、つぎからつぎへと大量の写真をみるのには不便です。
「Image Gallery」なるスライドショーも出来るモジュールをいれました。  サンプルとして スライドショー ミシガン湖に映えるシカゴの雷 をUpload しました。 ご覧ください。 著作権のがあるので ログインしてください。 

まことに美しい自然現象です。 ちょうど NHKで雷写真家の放送があっておもしろかったです。

タイトル、説明等に 日本語がまだ使えません。

浦田

click here



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投稿者: nobuour 投稿日時: 2007-12-16 18:41:25 (1344 ヒット)

しし鍋忘年会 写真 (photos) 千谷 清水

しし鍋忘年会 ビデオ (very short video) 1 清水
しし鍋忘年会 ビデオ (very short video) 2 清水

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皆さん、

しし鍋と忘年会はどうでしたか。 こちらは一瞬で終わるビデを受け取っただけなのです。 一体どうなってるのでしょうか?

浦田
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千谷さんも”仕事”を抱えていていて忙しくて、次の休みが来るまで無理でしょうから、

”晴耕雨読”の状態に入った私のほうから一枚だけ撮った写真を送ります。

会食場所の陣屋は、鶴巻温泉から歩いてすぐのところで、
木原さんのGoogle-Mapの検索では、駅前旅館では?
との心配もありましたが、結構いい雰囲気のところでした。
山も近く、もう少し晴れていると眺めがよかった、と思う。

”しし鍋”は、初めてだったので、ボタンといわれるごとく、真っ赤な肉に、感動!
多分、千谷さんの写真にあると思います
・・・肝心の真ん中の花心の部分を食べた跡の写真かも?

まずは、全員集合写真を送っておきます。

清水
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そうですよね、全くわからないですよね。
私の乏しい観察力で把握した範囲でつたない文章で報告します。

私は集合時間より5分前に行きましたところ、すでに改札の前当たりにそれらし
き集団がおり、清水、長野、千谷、高岡氏が集まっておりました。千谷氏はナッ
プザックをしょっており、カメラが入っているということでした。みなさん(私
を含めて)さすがに年を重ねましたが元気ではつらつ。さすがみんな時間に遅れ
ない、というと長野さんが、そりゃサラリーマンを長くやっていれば時間に遅れ
たら何やってるんだ!っていわれるからな、と久しぶりに聞く長野節。すぐホー
ムに入りましたのでホームで20分ぐらい磯部さんのことなど話しながら待ちま
した。

先頭車両に乗り高岡さんのお母様のお話を伺いながら載っていると、新百合ケ丘
で木原、鈴木両氏が一番先頭におり、載ってきました。どうやってきたの、と聞
くと前の座席に座った木原さんが紙をとりだし渡してくれましたが、乗り換え案
内(?)で探った時間とルートの情報が書いてありました。木原さんはモノレー
ルで多摩センターに出たらしいです。

町田で吉富氏が少し後のほうのホームに立っており、載ってきて離れたところに
すわり、眠っているようでした。厚木をすぎると山が見え、夕焼けで長野さんが
いなかになってきたな!と感動し(?)、鶴巻温泉に約1時間でつきました。

木原さんがGoogleEarthで見てきたら、ちいさい建物だったから、きっとお風呂
なんか小さいのではないかと心配してましたが、5分ほど歩くと黒い鳥居の一本
欠けた門のようなゲートのようなものがあり、陣屋があり、中は3つの大きな日
本家屋ときれいな日本庭園があって池に鯉が泳いでおりました。

つくと4時半でしたが5時からしか宴会場が空かない、お風呂に入れるというの
で、風邪気味の吉富さん以外はお風呂に。お風呂は池の橋を渡った建物で、結構
な大きさでした。私はほとんど一人だったので、気持ちよく入りました。

出たとろこで5時(みなさん、お待たせ)。そして宴会場に移りました。
以下省略。

次は浦田さんの帰国に合わせてやろうということになっています。
清水さんは2月にエジプトに行かれるということでしたが、肌もつやつや、眼も
輝いていてなんか一番元気だったような気もします。
みんなの話をくまなく聞けなかったので、今度は写真とかPCとか持ってきて、ひ
とりあたり15分でもいいので近況あるいはしゃべりたいことをプリゼン形式で
やるのもいいのではないか(?!)、と個人的には思っています。

みなさん補足、追加説明をお願いします。
中島

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桑原さん、清水さん

メールをありがとう。 だいぶ臨場感がでてきました。 ホームページに アップしておきました。
桑原さん報告というか描写をありがとう。 同じところへいって同じようにすごしてても皆、見ていることが、全く違います。とくに女性と男性は全然違うことが、ホームページに掲載しました、岸さんの 「岸聿子 (9.11当時を思い起こして 浦田) (2007-10-9) の記事」で身にしみて分かりました。 前々から思ってたのですが、日本は女性の社会参加をはかるのにほぼ失敗しましたね。 これが経済成長が頓挫した大きな一因だと思います。 夫婦が生産し消費する社会のほうが、よほど、豊かで成長のポテンシャルがあります。

ビデオと写真と文章は頭のどっか違うところに記憶されるのでしょうね。それぞれがたいへんいいです。

浦田



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投稿者: nobuour 投稿日時: 2007-11-24 19:25:44 (1308 ヒット)

週末に西伊豆の戸田にゆきました。
東大の寮があるところです。 ここをクリック- click here

すばらしい秋晴れで、戸田の海岸からすばらしい富士山が見えました。撮ってきた写真を添付します。 

木原


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投稿者: nobuour 投稿日時: 2007-11-10 21:05:37 (1516 ヒット)

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投稿者: nobuour 投稿日時: 2007-11-4 20:23:52 (1339 ヒット)

高性能デジタルカメラでしかも地中海、写真はどれも美しい。千谷さんの配慮もアングルもなかなかいい。


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千谷さん

イタリア旅行の写真見ました。いいですね!
これは、カメラがいいだけでなく、千谷さんの腕ですね。

デジカメが発達して、とても使いやすく、枚数を気にせず写せるようになったので、
メモ代わりに、何も考えずシャッターを切っていたので、
今回のギリシャ旅行では1000枚近くになっていました。
いざ、送ろうとして写真を見ていて、記録としては色々面白く残っているのですが、
人に伝えようとすると全く不足。
特に初めて見た風景では、その背景や風土的なものが、繋ぎあわさないと伝わらない。

で、今回のギリシャ旅行の反省として、次の新しい所へ行くときは、
「ビデオ・カメラを考えよう」でした。

しかし、千谷さんの写真を見ていて、メモ代わり、と称して、何も考えずに
シャッターを押していたところにも問題あり、と認識しました。
「一枚切り出す」と言うカメラの基本も忘れないようにしよう、と言うのが、
千谷さんの写真を見て、追加の反省点でした。

清水
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浦田さん

一応登録を済ませました。一枚だけどうしても送信できない写真があって、それを抜きました。勿論縮小はしてあります。何故だか検討がつきませんが、他は登録できたので、よしとします。コメントが”?”マークになってしまうトラブルもいくつかありましたが、それはコメント抜きにしました。Googleから検索するのはトライしてみます。


清水さん

最近はできるだけ意識してよい写真を撮るように心がけていますが、なかなか腕は上がりません。今のところ何となく分かってきたのは、?〃覿票未靴燭い發里鬟此璽爛▲奪廚靴洞?調し、関係ないものは極力そぎ落とすこと、?∀?出と絞りは適正になるようこころがけ、とくに露出はよく分からない時は何段かに分けて撮っておくこと、?9戎泙魄媼韻掘▲丱薀鵐垢鮨瓦?けること、などを気をつけてはいます。一眼レフの方がいろいろ工夫できるし、画像もきれいですから、重いのさえ我慢すれば面白いと思います。

みなさん

沢山撮ったものから思い切って絞込み、やっと登録しました。ご覧いただけると幸いです。

千谷
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千谷さん

しっかりした美しい写真をみせていただきました。随分前ですがカラカラ浴場や
フォロロマーノには行ったことがあるのですが、当時は未整備で今はこんなに
なっているのかと思いました。また行ってないところの写真をみるとなかなか美
しく、また行きたいな?と思いました。
また写真の構成がしっかりしているとも感じました。やはりこれは撮る姿勢が、
ちょっと記念に残すというような安易な姿勢とは違うということですね。

1000枚ぐらいから抜き出し、アップすることも時間を取っただろうと思います。
おかげで気分よくサイバー旅行ができました。ありがとう。

桑原
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投稿者: nobuour 投稿日時: 2007-10-20 4:16:38 (1431 ヒット)

皆さん

ギリシャの写真をULしようと整理したのですが、千谷さんも言ってたように、背景を無視した写真は、単なる石ころのころがった景色でしかないのに気がつき、少し解説を付けた写真集にしました。


ミケーネ遺跡 Archaeological Site of Mikenes

デルフィ遺跡Archaeological Site of Delphi

アテネ/アクロポリス遺跡 Archaeological Site of Acropolis

オリンピア遺跡 Archaeological Site of Olympia

エピダウロス遺跡 Archaeological Site of Epidaurus

ミストラ遺跡 Archaeological Site of Mystras



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投稿者: nobuour 投稿日時: 2007-10-9 6:54:14 (2547 ヒット)

アメリカの神話が崩れた日
岸聿子

 2001年9月11日(火曜)、いわゆる「あの火曜日」、私は名古屋空港を飛び立ち、Delta32便の中にいた。そしてその三時間後、ニューヨークの世界貿易センターがハイジャックされた二機の飛行機に体当たりされ、恐るべき火の玉となって崩れ去っていた。さらに他の一機によりワシントンDCの軍事施設ペンタゴンが、そして四機目がピッツバーグの南、キャンプデイビッドの近くに墜落。恐らくアメリカの心臓部といわれるホワイトハウスを狙ったものと見られている。

 このアメリカ全土、いや世界中を震撼させた大事件によって、我々に降りかかった混乱と難儀は、実は、9日、日曜日に始まっていた。この日八丈島あたりに生れた台風15号が迷走の末、名古屋を直撃すると見られたからである。Delta32便は9日(日)ロスアンジェルスを発つ33便であり、10日名古屋空港に着陸して二時間後、我々を乗せ32便となり再びロスへ向かうことになっていた。しかし飛行場の使用料は一時間当たり百万円であるらしく、9日の天気図は確かに名古屋を直撃するように見えた。果たして、ロスからの33便は欠航となり、当然10日の32便ロス行きも欠航となった。台風は結局静岡に上陸、名古屋は青空の見える「そよ風」に過ぎなかった。

 「一日くらいの出発の遅れは何でもない」と思った。しかしわれわれには知らされなかったが、名古屋を出発して三時間後、「あの悲劇」は起こっていた。名古屋を飛び立ったのは11日(火曜)午後6時15分だった。アメリカ、イースタンタイムでは午前5時15分、ハイジャックの一号機が貿易センターに体当たりしたのは、三時間後の8時30分頃だった。

 私はロスでの乗換えの難しさを過去に味わっていたため、ロスでは、なるべく早く飛行機を降りようと一番先に手続きをすませた。エコノミーの前から2番目32Aの席だった。そしてその横には、その後大変なお世話になろうとは露知らず乗り合わせた浦田伸夫という方が座っておられた。何気なくお互いに名乗りあうと、たちまち意気投合?してしまった。共にアメリカに生きるハンディと魅力を共有していたからであろう。彼については後で記す。ただここでは、彼が後に言ったコメントだけを紹介しよう。「恐らくコックピットには早い段階で事件が知らされ、北へ向いていた機首を南へ向け、ハワイに緊急着陸せよとの命令がくだされていたに違いない。それは機内の混乱を避け、機長とコックピットだけが握っていた情報だったのだろう。」 彼のコメントを裏づけるように、我々より少し先に出発したDelta機は、その分北に向かいすぎており、ハワイへ向かわずアラスカに着陸したらしい。「二日間寒さに震え、仕方なくジャケットを買う羽目になった」と、14日ロスからアトランタへ向かう飛行機の中で出会った、日本人のスチュワーデスが話してくれた。ハワイに降りたわれわれはラッキーだった。

 さて再び11日のDelta32便の機内に戻る。名古屋を平和裏に出発すると、まもなく飲み物、夕食のサービスがあり、皆眠りについた。私はなかなか眠れず、持参した安定剤を飲み、うとうと四時間くらいしたであろうか。外はもう真昼の太陽がまぶしかった。ふと機外に目をやった。一機の戦闘機が直ぐ下を飛んでいる。そしてやがて消えた。一緒に見ていた浦田さんがつぶやいた。「おや、ずいぶんなニヤミスですね。」更に言った。「それに、おかしいな。この飛行機はずっと北を通り、それから南下してロスに着くはずなのに、かなり南を飛んでいますよ。」その時だった。
 機内アナが流れた。“We’ll be landing in 15 minutes. Please fasten your seat belt and remain your seat. This is an emergent landing. You’ll hear the detail at the airport.”(あと15分で着陸します。これは緊急着陸ですが、詳細については着陸後にお知らせします。)

 着いたのはなんと、ハワイのホノルル空港だった。だが、どうもハイジャックではなさそうだった。あれほどロスでの入国手続きののろさと、長時間長蛇の列を思い、うなされて来たのに、ここでは殆ど列もなく、手続きも一人30秒くらいで終わった。おかしい、何かある。わたしたちの胸を不安と、えも言えぬ苛立ちがよぎる。しかし、そこには何のアナウンスも情報の提供もなかった。あわただしく、その代わり余りにもあっ気なく入国手続きが終わり、手荷物を受け取ったときだった。いつの間にか浦田さんがわたしの横に立っておられた。「どうやら、ニューヨークのツインビルがテロにやられたらしいですよ。ぐずぐずしているとホテルもタクシーも手に入らなくなる。急ぎましょう」と。何がなんだか不明だったが、ただならぬことになりそうだとの予感がした。

 彼はハワイへ何回も来ているらしく、観光案内所もよく心得ておられた。そこはみるみるうちに大勢の人でごった返し始めた。浦田さんはなれた英語でホテルを探している。そこへ背後から、「ホテルですか。僕たちの分もお願いします」と、二人の男性が立っていた。浦田さんは「では、四人分の部屋の空いているホテルを」と言いながら自分のクレジットカードで予約を済ませた。「早くしないとタクシーもなくなるよ。」彼のテキパキした行動にわれわれは着いていくのが精一杯だった。やって来たタクシーは、ダックスフンド型の一見すごく豪華な高級車だった。「料金に15%のチップと荷物一個につき1ドルを加算してください」と、係りのおじさんが英語でまくしたてている。真っ赤なビロードの布で内装され、四人が向き合ってゆっくり座れるスペースのあるシャトルタクシー。タクシー代は割り勘にしようと、これも22年間アメリカで働いている浦田さんの提案にみんなが納得した。タクシー代28ドル×1.5+4ドル=36ドル÷4=9ドルだった。

 ホテルはASTON WAIKIKI Sunset Hotel。同じ8 Fに四人の部屋が決まった。わたしは807号室。部屋に入ってびっくりした。入ると直ぐに立派な台所と炊事道具一式のついたコンドミニアム。大きな電気コンロ四つのあるその下には、大きなオーブンもついている。台所の向こうには10畳もあるようなリビングが広がっており、その間はカウンターで仕切られている。リビングには丸いテーブルに椅子四つ。大きなソファーにはガラス張りのテーブルもついている。ベッドルームにはベッドが二つ。隣のバスルームも一人ではもったいないスペースだ。これで一泊126ドルは安い。それも後になって、“We’ll give you a special price, 90 dollars.” と言われた。それがハワイ全土に特別な通告がなされていたか、あるいはホテル独自の処置によるサービスだったかは不明だが、ローカル新聞に「この悲劇に対して、自分に何が出来るか考えよう」とあった。だとしたらその対応の早さに感動する。

 12時過ぎ四人で昼食に出かけた。ワイキキの浜辺に沿って大道路が走っており、その通りに沿ったハイアットビルの中の中華料理店に入る。自己紹介は既にタクシーの中でしていた。岩瀬さん:自動車会社の技術部の室長。小栗さん:自動車部品会社の設計技術士であることは後で知る。名古屋空港以来隣席に乗り合わせた浦田さんは、サンホゼ近くのシリコンバレーで働いて22年になるということだった。三菱で7年働いているうち新しい数式を発見し、アメリカへ渡った。その時既に二人のお子さんもいたというから、かなり思い切った決断だったに違いない。アメリカ全土はもちろん、アフリカやロシヤへも仕事で行くということだった。こうした経歴を持った彼の決断と行動は実に見事だった。岩瀬さんも小栗さんも会社の同僚から相次いで、携帯のPCへ多くのEメールが届いている様子だった。心配してのものだったが、ハワイと聞いて羨む声もあった?とか。浦田さんは、寸暇を惜しむように自分自身と私のために、何回も予約センター、9-1-800-122-1212を呼び続けてくださった。「岸さんのは、明日の夜、9時30分のフライトがとれました。自分は14日の夜が取れました。これでやれやれです」と。本当に嬉しかった。英語には多少自信があったものの、こうしたビジネスにからんだ駆け引きは、単なる英語力だけではどうにもならない部分がある。浦田さんは根気よく、断られても、駄目だしをくらっても何回もトライしてくださった。

 他のお二人には大会社のサポートがある。特に岩瀬さんはシンシナティの出先機関と連絡が取れ、会社の力で切符が取れるはずだった。小栗さんは会社から待機命令が出ているため、手も足も出ない状態だった。TVには、”America is at war” との帯がついている。ブッシュ大統領は、引きつった顔で「必ずテロの一味を見つけ出し、We will pay for it. (このお返しはきっとしてやる)」と繰り返している。一番の疑いがかかっている Osama bin Laden は、アフガニスタンにいると見られるため世界中が、アメリカの報復爆撃が明日にも始まるのではないかと恐れている。このような時にやたら動けば、又どんな事態に巻き込まれるかもしれないとの恐怖があった。

 それにしてもこのハワイには、次々と緊急着陸した飛行機であふれ、空港にはホテルもなく不安気にあちこちの地べたに腰を下ろしている旅行者であふれているという。ある若い日本人女性がTVのインタビューに答えていた。「早く日本へ帰りたい。アメリカは世界一安全な国だと思っていたのに。一刻も早く帰りたいです!」と。それを見ながら思った。そうか、アメリカは政治、経済、軍事、ハイテクの世界的リーダーであり、いかなる国もアメリカに手向かうことなど出来ないと思われてきた。その神話が四機のハイジャック機によりアッという間に、余りにももろく崩れ去ったのだ。だれもがその耳を疑い、その目を凝らした。しかし、繰り返しTVで見る映像は、まるで映画のようであり、全くのフィクションを見るように完璧な崩壊劇だ。しかもそれは映画ではない。まぎれもなく現実の出来事なのだと、何回も自分に言い聞かせた。こんなにももろく、あっけなく、いとも簡単に、「強いアメリカ、完全なアメリカ」が崩れようとは、誰も想像しなかったであろう。それだけにそのショックは、常のものではない。

 9月12日(水曜日)晴。7時に起き、身支度を済ませると一人で外出。昨日覚えた道を歩き、あちこちに点在するABCストアを覗く。3ブロックほど歩いたところにバナナブレッドとマフィンを見つける。部屋へ戻り備え付けてあったコーヒーを入れて飲む。11時ごろまた四人で話し合い、レンターカーを借り、オアフ島の東部をドライブすることになった。ここでも左ハンドルに慣れた浦田さんが運転をしてくださり、岩瀬さんが地図を広げてナビゲーター役。小栗さんと私はレアシートで楽な役?。先ずはハワイ日系人の19世紀入植当時のご苦労を、知るために、ハワイ日本文化センターを訪ねた。想像を絶する環境の中で、さとうきび畑やパイナップル畑などで低賃金に甘んじ勤勉に働かれた一世のご苦労を見た。また第二次世界対戦では、立派なアメリカ人としてヨーロッパの前線で活躍されたことも、その後の日系人の社会的地位向上に、大きな影響を与えたと、説明役を務めてくださった方から聞いた。
 車はやがて、72号線沿いを走りだした。訪れたハナウマ湾は美しいサンゴ礁が広がるダイビングスポット。大勢の人がシュノーケルとフィンをつけてもぐっていた。羨ましいような、でも今はどこかに危機感を宿していて、そんな気分にはなれないような、複雑な思いだ。海の色は沖縄のものとよく似ていたが、沖の方の色は、紫がかった濃いブルーで、始めて見る色だった。海の反対側は、緑の殆どない砂漠のような山々が連なっている。特にココクレーターと呼ばれる、切り立った山は今にも頂上から火の柱が飛び出してきそうな気がした。ドライブは楽しかったが、私のフライトが今夜9時30分の予約だったので、惜しみつつ5時にホテルにもどる。

 名古屋の友人にもらった「味噌煮込みうどん」を作り皆さんに差し上げる。具のない素うどんだったが、皆さんに喜ばれて驚いた。そして大急ぎレンターカーを空港へ走らせる。空港近くに来た時、皆さんが、「なんだかいやな予感がするね」と。動いているような飛行機の音は全くせず、カウンターの並んでいる受付デスクはがらんとしている。いつもなら様々な車や人々で混雑している道路沿いにはところどころに、三々五々警備員や軍隊の兵士が銃を持って立っている。看板があり、「いかなる車も300ヤード以内に駐車を禁ず」とある。Deltaのカウンターに2,3人の人影が見えたので私が調べに行った。「今日は全てのエアラインがストップしている。明日のことは明日の指令が来るまで分からない。あなたと浦田の名はちゃんとある。そのうちに必ずトライシティへ行けるようにしてあげる。ホテルの名は?」と、それだけだった。出発できると思い、荷物を抱え、若い小栗さんが終始手を貸してくださったのに。「この調子では、明日朝の浦田さんのフライトも危ないね」などと半分冗談を言いながらも、不安は消えなかった。

9月13日(木)晴。昨夜も安定剤を飲んだので目覚めたのは9時過ぎだった。着替えを済まし外出しようとドアのところへ行くと浦田さんからのメモがあった。彼の住所や「道中無事を祈る」とあった。「浦田さんの飛行機は飛んだのかしら」。喜んであげる前に不安がよぎる。昨日行ったABCストアへ出かけ、大きなマフィンとコーヒー、りんご2個、水、牛のチュー、露豆の缶詰を買う。帰途、道路で新聞を売っていたので一部買う。そして歩き出したところへ一台のバスが通りかかった。見ると「airport」とある。ここを空港行きのバスが通るのかと思ったが、その時は、それだけだった。

 通りには人があふれていた。これはひょっとすると長期戦になるかもしれない。新聞を見ると、日本その他から18機の飛行機がホノルルに緊急着陸し、4500人もの人々が滞在しているとある。あるホテルでは、一部屋に六人が詰め込まれていると聞いた。新聞にも疲れ果てた旅行者が飛行場待合室の床の上に座り込んだ写真も出ている。このままではホテルの延長も難しいかもしれない。また、浦田さんのいないことが不安になる。とにかく二晩ホテル滞在の延長をフロントで頼み、部屋へ戻る。

 一人でコーヒーを沸かし、備え付けの鍋にシチューと露豆の缶詰を開け、一緒に暖めた。ブランチのつもりで食べ始めたが、食欲はなかった。浦田さんのメモが気になった。それでも自分に言い聞かせた。「昨夜あれほど静まり返った空港だったもの。まさか今朝9時のフライトが始まったとは考えにくい。きっと彼は帰ってくる。そうしたら、またみんなでドライブだ」などと、思い込もうとした。買ってきたばかりの新聞を、辞書を片手に読み漁る。この三日間これほど真剣に英字新聞を読み、本場の英語のTVニュースを見たことはなかった。ニューヨークのツインビルが、まるで模型のビルであり、そこへ模型かあるいは、CPグラフィックされた飛行機で飛び込んだかのように見える。その見事なまでの映像を何十回見たことであろう。その瞬間の写真が1ページに大きくカラー印刷されている。また次のページには四機が突入した場所と位置が、更に其々の出発地、時刻、搭乗者数、時刻などが記されている。そして首謀者と見られるOsama bin Laden について下記のようにあった。

Osama bin Laden is the face of evil. Bin Laden : The man who Declared War on America. He had a university education in Saudi Arabia. His own fortune is estimated at $350 million (420 億円). He is the youngest of 24 brothers and has 16 to 18 children. In 1998 he allied himself with several militant leaders and issued religious decree ; “To kill Americans and their allies, both civil and military, is an individual duty of every muslim who is able in any country where this is possible.” この記事のヘッドラインにはこうある。Taliban bracing for retaliation by U.S. 50 identified as part of terror team.

12時になっても浦田さんは帰ってこなかった。やがてルームメイカーの女性二人が掃除を始めた。「もう浦田さんは帰らない」と確信する。いよいよジットしてはいけないと思い始めた。彼がいつも電話していた予約センターへ電話をするが、テープが流れるばかり。そうだ先刻見たairport 行きのバスを思い出した(何故かタクシーを呼ばず、バスに乗ることを考えた。そのあたりが悲しい主婦感覚)。ひょっとすると荷物を取りに帰るかもしれない。ハンガーにかけてあった服や洗濯して半乾きのままの物をたたむ間もなく、手当たり次第にトランクの中に投げ入れ、ふたを閉め鍵をかけた。

 フロントでバスの停留所を確かめ、1ブロック南の角へ向かう。バスはすぐ来た。この時点ではまだ心に余裕があった。空港まで1ドル50セント。あちこち迂回しながら、1時間余りでようやく着いた。空港はまだガランとしていたが、Deltaカウンターにも、ANAにも荷物を抱えた人が10数人並んでいた。昨夜パソコンに私の名前を確認してくれた女性のいた受付へ急ぎ、訴えようとしたが、”Those any gentlemen will take care of you.” と言う。みると五箇所くらいのカウンターが開き、其々に客がついている。いきなり空いた場所へ入いろうとすると、”No, no, You must wait behind the man over there.” と静止された。見ると一人の男性が順番を待っている。

 ようやくカウンターボックスが一つ空き、またもう一つも空いたので、駆け寄るように男性係員のボックスについた。男性:「名古屋からの32便のお客は今朝の9時半と12時半の飛行機で出て行ったよ。」私:「え?12時半なんて、今じゃん!。」男性:「今日はもうフライトはないよ。」私:「??」男性:「あ、ちょっと待って。(PCを見ながら)今夜9時55分があるが、スタンバイだよ。」私:「もう何でもいいから乗せてください。」男性:「スタンバイにしてあげよう。3時からの受付で、もう間もなく始まるよ。なるべく早く並んだようがいいよ。もしこれがだめなら、明日の朝8:50発と午後の便二つが確保してあるから。」明日じゃない!今日の便に乗らなければ!体全体に緊張が走った。

 大急ぎでタクシー乗り場へ。係りの人:”You want a taxi?” “Yes, very badly!” とは言ったものの、先客があった。一分が一時間に思える事態だった。やがて私の分が来たが、またあの豪華なダックスフンドだった。なが?いボディにビロウド張りの内装。洋酒も並んでいる。”To Aston Waikiki Hotel, please. Will you wait at the hotel till I go in and get my baggage? I want to come back to the airport as soon as possible. So please hurry up.”
 30分足らずでホテルに着いた。先ずフロントで今朝頼んだ二泊の延長滞在をキャンセル。これまでのホテル代を計算してもらう。その間に大急ぎ8Fへ。岩瀬さんのドアをノックするが返事がない。小栗さんの部屋をノック。「あ、どうぞ」「いや、それどころじゃないの。私今夜の飛行機に乗れそうなの。実は、今朝シチューを作ったままだけど、召し上がってくださいません?タクシーを下に待たせてあるから、荷物をもってすぐ降りるの。」「それなら僕も空港へ行ってみたかったところだから、一緒に行きましょう。」

 結局岩瀬さんも降りてこられ、三人で空港へ急ぐ。お二人はANAのカウンターへ。私は入り口で荷物の検査をされ、スーツケースにはシールが貼られた。それを持って受付カウンターへ。男性職員にスタンバイの切符を見せる。男性:”Do you have any baggage?” 私:“Yes, I have one baggage.” 男性:“Could you wait a moment?” 何か捜し物をしたり、カウンターのむこうへ消えてはまた出てきたりしている。男性:”Sorry, I’ll be with you in a minute.”私: “It’s all right. Take your time. I have a plenty of time.” とわれながら、随分余裕も出ていた。男性:”I thought I could take your baggage in, but it didn’t work. Sorry.”必死な私: “Well, it’s all right. But you see, my daughter is expecting a baby at any time now. So I desperately need to leave here tonight.”(娘にもうすぐ子供が生れるので、今夜どうしても出発したいのです。)とっさの知恵?だった。男性:”Oh, I see. We’ll put you on the plane.” 「え?本当?よかった!」だが、この人の言うことが他の係員に伝わるとは限らない。今までがそうであったように、どこかですれ違うかもしれないのだ。今は、祈るしかなかった。

 8時15分になれば、スタンバイの乗客の名が呼ばれることになった。だが、時計を見るとまだ5時前だった。岩瀬さんと小栗さんは、ANAとの話し合いがうまく行ったらしく、先に別れを言ってお帰りになった。本当に一人きりになった。ホノルル空港は、受付カウンターのある場所は外と内との壁はない。まだ日は高いが後2時間もすれば、外は暗くなるだろう。ここには店はおろか、座る椅子さえ見つからない。外の青空の下に石のベンチらしきものがある。ここでどうやって3時間を過ごせばよいのだろう。2,3電話をかけたり、トイレへ行ったり、とにかく動き回ることで時間をつぶすしかなかった。

 何とか7時になった。何時の間にか人が集まり始めている。最後の1時間はつらいものに思われた。またスーツケースをごろごろさせ、集合場所にと指定された場所へ移動する。そこに大きなステンレス貼りの荷物を載せる台を見つけた。少し高かったがそこに腰掛けると、ふと横になりたくなった。もう、恥も外聞もなかった。その上に仰向けに寝ると、それまで痛めていた腰が伸び、とてもいい気持ちだった。このまま30分でも眠ることが出来ればありがたい。もちろん眠れなかったが、それは実にありがたい場所だった。「あー、テネシーの子供たちの顔を見られるのはいつかな。」そう思った途端、不覚にも涙がほほを流れた。幸い、帽子で顔を覆っていたので、誰にも気付かれずにすんだ。
ようやく8時になった。スタンバイの乗客は2,30人かと思っていたが、発表されたのは74人だった。やがて女性職員が二人パソコンの前に座り、いよいよ呼び出しが始まった。すでに切符の準備は出来ているのかと思ったが、なんと一人一人の乗客の名前を打ち込んでは、搭乗券を一枚一枚取り出し、おもむろに客の名前を呼んでいる。もっと効率的なやり方は出来ないのかと、つい苛立つ。8時55分発の飛行機なのに、もう8時20分が過ぎている。もし、私の前まで来て、「はい、それまで」と言われたらどうしよう。すでにホテルはキャンセルしている。このままこの寒々しい空港で一夜を明かさねばならないのだろうか。そうしたら、さっきの台の上で寝るとしよう、などと覚悟していたときだった。”Passenger KISHI” と呼ばれたではないか!「やったー!これでようやくハワイ脱出が出来る。EXODUS! 旧約聖書の「出エジプト」には比べられないが、おなじ言葉が使われていた。私には正にエキソドスだった。不安げに次のコールを待つ人々には気の毒だったが、大急ぎでトランクを運んで、カウンターボックスへ。係りの方に「あなたの荷物はまっすぐトライシティへ行きますよ」といわれたときには、思わず、”Oh, thank you. That’s wonderful.” と言っていた。「22番ゲートへ急ぎなさい」と。時計を見ると、既に8時30分を回っていた。

 セキュリティを通る。ここでもみんなのんびりしている。厳重なのか、効率が悪いのか分からない。問題なくクリアー。22番ゲートを探す。もう搭乗は終わっているに違いないと急いだが、ゲートには200人ばかりの乗客が待合室の椅子に座っているではないか。それからおもむろに、ファーストクラスの搭乗が始まり、老人、障害者、番号の遅い人から順に呼び出しがあり、全てが終わったときは、9時45分だった。
 かくして三日間に及んだ「緊急避難」からのEXODUS劇は、私の中では終わった。しかしこの国の戦いは始まったばかり。世界中の知恵者、賢者が人間の英知を傾け、この難しい難問を解決してほしいと祈っている。以下に9月26日、テネシー州キングスポートで買った英字新聞の一部を記します。
KINGSPORT : TIMES NEWS
Bush : This is good versus evil
Washington – The Bush administration forget new links Tuesday in its international coalition against terrorism as Saudi Arabia cut diplomatic tie with Afgan. Japan promised to share intelligence data and Russia strongly endorsed the U.S. campaign.
U.S. Today (Atlanta) America on alert
Bush : We’re focused on justice, and we’re going to get justice. It’s going to take a while probably, but I’m a patient man. Nothing will diminish my will and my determination, nothing.
“Needless to say, there is not going to be a D – Day, as such”, Rumsfeld said, “And I’m sure there will not be a signing ceremony on the Missouri”, the battleship on which Japanese surrendered to end World War ??.

この18日間を、歴史的大事件の真っ只中のアメリカで過ごし、日本の危機管理能力はどのようになっているのかとの疑問が消えなかった。それは日々の生活の中で自分を厳しく律することと無縁ではないと思ったからである。Do and act at your own risk.と、浦田さんに教えられた。 (その後彼からのメールで知った。彼は最後まで「岸夫人も乗せてくれ」と頼んでくれたが、満席だったようだ。)



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投稿者: nobuour 投稿日時: 2007-9-24 16:58:13 (1300 ヒット)

話は変わりますが、先週四川省成都のお客の近くに「大熊猫繁育研究基地」があり、パンダの写真を撮ってきたので、浦田のサイトにアップしました。  

写真は以下をクリックしてください。
http://www.urata123.com/modules/myalbum/viewcat.php?cid=17

高岡


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投稿者: nobuour 投稿日時: 2007-9-8 20:42:38 (1156 ヒット)

皆さん

30年ぶりに「北アルプス」へ行って来ました! click here

会社で一日中煙草を吹かして椅子で新聞を読んでいた豪快な先輩72才!)から、昨年北アルプスを縦走してきた、と言う年賀状を今年頂き、なんとしても行きたくなり、同じ年頃の人を誘って3人(平均年齢:61才)で行って来ました。

久しぶりで体力も自信ないので、手軽な<燕岳−大天井岳−常念岳のコース。残念ながら、途中で雨降りとなり、下山。
槍を見ながらの縦走と朝焼けの槍−穂高を見ることができなかったが、尾根にたどり着いて、北アルプスの連山を見た時の久しぶりの感激!

何とかたどり着き、大丈夫、まだ行ける、と自信がつき、今回は手始めで、これから山登りを再開しようと思っています。皆さんもどうですか?

写真は、途中で下山したであまりいいのがないのですが、浦田さんのアルバムに入れるようにしてします。

清水
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清水さん

北アルプス登山とは、ずいぶん意欲的な試みですね。しかも同年代の同好の士が3人も集まったとは驚き。畏敬の念さえ沸いてきます。

私は、30年以上前に白馬に登って以来、高い山には登ったことがありませんが、最近、アルプスに行ってみたいな、と思うことがあります。澄み切った秋の青空のもと、雪を頂いたアルプスなぞは
さぞかし素晴らしそう、と想像しています。秋の土日に手軽に行けるお勧めのところありませんかね。ただし、不謹慎かもしれませんが自動車で登れる山があればの話ですが、、、。

木原
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清水さん

凄いですねえ。ともかくもチャレンジしたことが素晴らしいです。小生など沼津時代に富士山登山を毎年何度も誘われて、とうとう逃げまくってしまいました。学生の時に北岳に登ったのが最後でそれ以降は高い山に登る勇気が出ません。低山歩きあたりからなら行く気はありますが、それもゆっくりと行きたいものですね。写真を楽しみにしています。

みなさん

やっと暑さも峠を越したのでしょうか。夏バテを癒して、頑張ってください。小生は明後日からイタリアに9泊11日で行ってきます。塩野七生さんの著作を読んで予習していましたが、アウグストスまでで終わりました。楽しんできます。

千谷
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清水さん

北アルプス縦走ですか!!すごい! 昔、常念岳の途中まで登ったけれど、どしゃぶりの雨になって降りた覚えがあります。でも相当きつかったですよ。よく平気で登れますね、やはり日頃の鍛錬でしょうか。写真を楽しみにしています。

私も少し山登りぐらいできるくらいの体力をキープしていたく、毎日軟弱に少し歩いています(とても清水さんの歩きにはかなわないけれど・・)。

千谷さん

今頃イタリアでしょうか?いいですね、イタリアも。塩野七生を予習して行くあたりが共感がもてます。

中島
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木原さん

僕も行こうと思っているのですが、再開したてで今調べ出したところです。いいのが見つかったら連絡します。

今回わかったこと。
・我々の世代が圧倒的に多いこと。
・女性の方が圧倒的に多いこと。
 おばさん方は、とっても元気でタフでした。負けますね。
・新宿発の夜行列車が無くなっていて、車で来る人が多いようで、
 その仕組みも発達していると思います。

清水
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清水さん

小生、山のことはまったく土地勘なし。清水さんが頼りです。よろしくお願いします。初心者用の初級編で適当なものあったら教えてください。

木原
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投稿者: nobuour 投稿日時: 2007-7-21 5:42:09 (1165 ヒット)

Subject: 東北還暦の旅:報告、ご苦労様!

皆さん

想定外の台風直撃で、最悪山形まで行ってUターンか?と心配された旅も、
着いた新庄駅で陸羽西線が運行中止との知らせにもめげず、
レンターカーに乗り継ぎ、計画以上に活動範囲を広げて、
無事終了、皆様お疲れさまでした!!
台風と地震のわずかなズレをくぐり抜けた、絶妙なタイミングでしたね。

果てしないおしゃべりと笑いの連続で、すっかり学生時代の気分にもどり、
二日間、満喫しました!

色々ありましたが、
・山形新幹線は、在来線と同じ線路を使って運行、その方法は?
 在来線の車輪幅を広軌に変えて運行(車幅は変えずに)という驚愕の事実!
 侃々諤々の議論が続いたが、鈴木さんの線路の幅が広い!と言う、
 一時は死んだ主張が正解でした。
・浦田さんが、”おしん”に再会!感激の記念写真を!
 ”おしん”の縁の地とは知らなかった。
 ”花笠踊り”の発祥の地とのことで、地元の踊りが見れた。
・”他県からは一滴の水ももらわずに”流れ始めて流れ下る、山形県の最上川。
 船頭さんには、色々、教えていただきました。
 中国バージョン、韓国バージョンも聞きたかった。
・木原さんの二日に渡る”そばを食べたい!”が、実現。
 そば街道のど田舎の何故か大人気であったそば屋で、満腹。

写真は、浦田さんの要望のサイズに縮小して、別途、送ります。
宿で撮った集合写真は、手ブレが激しいので、どなたか良いのをお願いします。


次回は、
”鶴巻温泉”+”しし鍋”との要望が出ていましたので、
調べておきます。


清水


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投稿者: nobuour 投稿日時: 2007-7-21 4:26:18 (1102 ヒット)

千谷さん投稿ありがとう。使い勝手で感想はありますか?
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